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   情報社会にはアナーキズムがはびこる  ユートピア論と管理社会論の落とし穴       
   

   
                                                         『エコノミスト』 61巻48号 1983年                                                         
   

● 技術の買いかぶり
 社会の情報化への動きは、いまやとどまるところを知らないかにみえる。その帰趨をめぐって、一方では、オフィス・オートメーションやニュー・メディアの信奉者がユートピア論をまくしたて、他方では、管理社会化や雇用喪失を憂えるラダイト主義者が反ユートピア論を説く。
 しかし、前者の言い分と後者の主張には、奇妙にも一致する点があるかにみえる。というのは、一方は万人の参加できるシステムを夢み、他方は万人が抑圧されるシステムを恐れていることだ。つまり、いずれも、巨大な社会情報システムができると予想しているわけだ。はたして、そうか。
 まず、ユートピア論者の言い分を聞こう。企業内には、LAN(構内通信網)がひきまわされ、ワーク・ステーション(電子机といったもの)がばらまかれる。こうした仕掛けを使ってオフィス要員は、企業内に組織を横断し階層を縦断する情報システムを作ることができる。企業間には、VAN(付加価値通信網)が四通八達し、発注から決済にいたる取引が自動化される。このネットワークに、ニュー・メディア(キャプテンなど)がさらに消費者を巻きこむとき、エレクトロニック・バンキングやリテール・オートメーションが完成する。
 さらに、全国的インフラストラクチャーとしての情報ネットワーク、INSのうえに、自動投票などを可能とする合意形成システムができるだろう。この到達点が万人参加型の巨大な社会情報システムだということになる。ここに、「見えざる手」に対する信頼がある。
 反ユートピア主義者の主張はどうか。おなじ企業内システム、企業間システムが人減らしを実現し、残った人を歯車と化す。おなじ全国的ネットワークが消費者の行動を監視し、そのプライバシーを盗む。と同時に、情報操作によって消費者の思想、行動を画一化する。こうして、万人抑圧型の巨大な社会情報システムが完成する。ここには、「計画化・管理化」に対する不信と不安がある。
 というわけで、いずれの意見も、巨大な社会情報システムができるという点については一致している。つまり、両者とも、技術をそうした破天荒なことをなしうるものとしてみているわけだ。
 だが、大型情報システムの開発と運用にかかわってきたものの目、つまり実務家の目でみると、こうした意見は、第一に、技術というものを、あまりにも買いかぶり、あまりにも静止的にとらえており、第二に、人間というものを、あまりにも理性的な存在として理解している、と思える。
 ということで、一実務家の実感的な意見をここでまとめてみたい。
   
● 硬直化するシステム
 情報・通信技術のユーザーの目で振り返ってみると、その技術革新の激しさにびっくりする。だれもが言うように、機械の性能はよくなり、その価格は安くなった。それは、どんな楽観論者の予想をも超えるものであった。だが、私の言いたいのは、もうひとつ、別のことだ。
 というのは、機械の設計思想(コンピュータ技術者はこれをアーキテクチャーという)が変転きわまりないことだ。一昔前は、大型汎用コンピュータによる集中処理が習わしだった。いまは、小型コンピュータをばらまく分散処理がはやっている。その分散処理にしても、はじめは、大型機の下に小型機をぶらさげる階層的なネットワークだったが、いつしか、同規模の機械を対等につなげる水平型のネットワークが出現してきた。
 集中処理と分散処理とは対立する概念だ。階層的ネットワークと水平型ネットワークとは別種の概念だ。さらに分散型データベースなどという自己矛盾的な概念まで出現している(データベースとはデータを一元的に統合するものだ)。つまり、現代の最先端技術と称されるものは、じつは煩項な中世のスコラ哲学を思わせるものなのだ。分散型データベースなどまさに秘数的なものの極致にあるといえよう。  もし、分散処理をよしとするならば、その前提として万人向きのプログラミング方式が用意されなければならない。だが、そうしたものは、まだ、ない。また、水平型ネットワークをよしとするならば、分散型データベースがほしい。だが、それは、実用にはほど遠い。ユーザーからみると、技術の発展には遅速があり、バランスがとれていない。
 メーカーはどう考えるか。IBM社はすでに1960年代末に「価格設定と利益」という社内文書に、次のように説いていたとのことだ。「利益を改善するためのもっともよい手段は、製品価格の弾力性を鈍化させることであり、これは製品の差別化により達成される。そして、製品の差別化は技術革新の成果である。これは、経済法則である」。経済法則であれば、他のメーカーも同様に考えたであろう。
 この言葉は、まだこの世界に大型汎用コンピュータしかない時代のものであった。しかし、それに続く20年間に、メーカーはまさにこの言葉を現実化し、アーキテクチャーは変転し、製品は多様化した。その揚げ句が、今日のオフィス・オートメーションヘのフィーバーだ。
   ユーザーの事情はどうか。メーカーに誘導されて、いろいろなものを買いこんだ。一方では、技術進歩に遅れることを恐れ、他方では、性能対価格比の増大に引きつけられて。その結果、ユーザーのコンピュータ室には、新旧のシステムが並び、ユーザーのコンピュータ部は、筋の違うアーキテクチャーを同時に使うということになった。
 なぜ、新旧システムの併用などと面倒なことをするのか。スクラップ・アンド・ビルドはできないのか。できない。ユーザーが情報システムを作ったとは、コンピュータのなかへ、オフィス内の仕事の手順を格納したということだ。それは、伝票の書式といったオフィスの物理的環境から、取引条件の設定といったオフィス要員の行動様式までを、コンピュータに縛りつけることとなる。なにによって縛るかといえば、それがソフトウエアなのだ。
 したがって、コンピュータをスクラップ・アンド・ビルドするとは、ハードウエアを入れ替えることにとどまらず、そのなかのソフトウエアを書き換えることにほかならず、それは、とりもなおさず、そのオフィスの事務手順の再編成になりかねない。このソフトウエアの書き換えが難事なのだ。さらに、事務手順の再編成などということは、オフィスのなかに組織や権限の変更をもたらすはずであり、不可能事に近い。
 この理由で、情報システムのスクラップ・アンド・ビルドは難しいのだ。それは、プラジリアやシャンディガールのような新都市の建設ではなく、東京やニューヨークの都心の再開発に似ている。だから、情報システムのスクラップ・アンド・ビルドは、それが大規模であるほど、それが長い歴史を持っているほど、ややこしくなる。
 スクラップ・アンド・ビルドができなければどうなるか。ユーザーはキメーフ化した新旧のシステムを持つことになる。このとき、ユーザーのシステムは硬直化する。
   
● 脱標準化へ向かう技術
 情報処理機械は工業製品である。工業製品の特徴は、それが規格、つまり技術標準を持っているということだ。この技術標準があるから、どのメーカーの製品でも互換性があり、ユーザーは安心して使うことができる。コンピュータについても、つい最近までは、IBM互換性という秩序が存在していた。その基本ソフトウエア(これをオペレーティング・システムという)は、パブリック・ドメインにあるとして公開されていた。ところが、IBM社は、いまやそれを隠し、追従者には売りつけるようになった。独占から競争の時代に入ったと認識したためだろう。
 ガリバー型支配が行われる大型コンピ?−タの世界でさえこうだとすれば、群雄割拠するオフィス・オートメーション機器の世界で、多様な技術標準がはびこっていることはうなずけるだろう。その傾向は、むしろ脱標準化といったほうがよいくらいだ。パーソナル・コンピュータ(とくにソフトウエアで)しかり、ワード・プロセッサしかり、フロッピィ・ディスクしかり、だ。
 標準化が徹底されてきたのは、なんといっても通信の世界だ。通信は、社会のインフラストラクチャーとして、長い歴史をかけて、全国的な、さらには国際的な技術標準を普及させてきた。そのおかげで、私たちは、どこにいても「あまねく等しく」通信サービスを受けることができる。その典型例が電話だ。
 だが、ユーザーの要望は情報処理技術の進展とともに膨らみはじめた。電話ネットワークによって音声以外の情報を送りたいというわけだ。そうしたユーザーの要望に押されて、いまや電話ネットワークには、データや画像が、音声と一緒に流れている。つまり、電話ネットワークには、コンピュータやファクシミリやタイプライター型端末やテレビ型端末が接続するようになった。
 しかし、電話ネットワークには在来の技術標準がある。だから、新しい技術を十分に活用できない。新しい技術をもれなく取りこむためには、新しいネットワークが必要だ。現に、データ通信用の専用ネットワーク、ファクシミリ用の専用ネットワークが開発され、全国に展開しつつある。つまり、通信の分野でも多様化がはじまったわけだ。
 多様化とともに「あまねく等しく」の理念は薄らぐ。メンバーズ・クラブを作り仲間内で独自の通信サービスをやりたいというユーザーがでてきた。そうした希望に応えてVANが出現してきた。自家用であれば、さらに勝手なことができるはずだ。そのためにLANが出番を待っている。
 VANとは、多様化し互換性を失ったユーザーのシステムをつなぐことを目的とするネットワークである。そのためにはユーザー相互間にある矛盾を、すべてネットワークが背負いこむ、ということだ。しかし、一つのVANですべてのユーザーを満足させるわけにはいかない。そこで、さまざまな工夫をこらしたVANが公衆電気通信に対して競争を挑むことになる。ちょうど、宅配便が郵便小包に対するように。LANにいたっては、まさに百鬼夜行だ。通信ネットワークの個性化ここにきわまる、というべきだろう。
 こうして、新しい技術は、伝統的な技術体系の枠をこえて融合しつつある。と同時に、新しい技術は伝統的な法制度になじまなくなりつつある。最近、電話用のメール・ボックス(電子化私書箱といったもの)を売り出し、それが交換機なのかコンピュータなのか、電電公社を悩ませている商社がある。ここにも、アナーキズムの姿がある。こうした流れのなかでINSをどう位置づけたらよいのか、私には分からない。
   
● アングラシステムの横行
前世紀の天文学者ラプラスは、現在をくまなく知ることができれば、天体の運行から原子の運動にいたるまで、未来を予言しうると考えた。この確信の祖述者になったのが、今世紀のシステム技術者だ。かれは、MIS(経営情報システム)を構築し、企業内の情報を集中すれば、企業の未来を予測でき&と信じた。この確信のもとに建設されたものが、大型コンピュータを中心とし、そのなかのデータベースに組織内の情報を集積し格納し、そこから出るネットワークに組織内の人間を縛りつけるシステムだった。
 だが、MISの構想はあえなく崩れた。「MISはMΥΥH(虚妄)だった」などというタメ息も出た。なぜか。
 理由の一つはすでに述べた。それは、ユーザーのシステムが、機械系についてはキメラ型に硬直化しがちだということだった。もうひとつの理由は、日本の企業の体質にかかわることだ。それは、人間系に柔軟性がありすぎるということだ。つまり、黙契による信頼、おみこし型意思決定、職務権限のあいまいさ、などのことだ。
 硬直した機械系に柔軟な人間系が重なればどうなるか。そのシステムは崩れはじめる。たとえば、全社的管理システムは、頭のよい自主性にとむ中間管理者の批判にさらされる。かれらは、部門最適化の立場から、全社システムを転用し、あるいは無視する。ばあいによってはアンダーグラウンドのシステムを構築する。なにしろ情報機器の値段が安くなったので、部課長の裁量でそれが買えるようになった。
 専門家としてMISを担当する情報システム部門からみると、まさに「大衆の反逆」である。だが、その大衆が、よし頭のよい自主性のある人であっても、情報.システムに関してしょせんはアマチュアである。かれらは、組織内に品質の悪いシステムをばらまくことになる。こうして、情報システムの世界にアナーキズムが侵入する。
 強制力の働く企業内でもしかりとすれば、自由競争の場では、これが当たりまえということになろう。だから、情報社会には、専門家が腕によりをかけて仕上げる高品質のシステムとともに、アマチュアが勝手気ままに作る品質の劣ったシステムがたくさん出現し、その多様性を競うこととなろう。しかも、そうしたシステムのユーザーの倫理性も高低さまざま、ということになろう。
 こうしたユーザーのアナーキズムは、先に述べた技術体系のアナーキズムと重なる。その揚げ句、人間側の情報理解能力と機械側の情報提供能力との間の食い違いがひどくなるだろう。つまり、情報は、あるいは死蔵され(たとえば、複写機はバベルの塔のようにコピーを積みあげるが、そのコピーはまず参照されることのないまま、年末の大掃除で捨てられる)、あるいは衝突する(たとえば、電話で送られるメッセージはクノッソスの迷路をたどるが、その行きつく先がお話し中のことが多い。電話をやめて電子メールにすると、お話し中はなくなるが、キーマン宛のメッセージがどっと増え、その仕分けにキーマン自身が忙殺される羽目になる)。
 大規模システムは、それが情報システムであっても通信システムであっても、ソフトウエアのかたまりだ。ソフトウエアは大型化し複雑化するほど、硬直化し、変化に対応しにくくなる。ソフトウエアというものは、人間の目には過度に単調であり、人間の脳には過度に厳密である。だから間違い(仲間内では、これを虫という)を生じやすい。この虫は、ソフトウエアが大きいほど、ややこしいほど入りやすい。そこで大規模、複雑なソフトウエアほど、扱いが面倒になる。つまり、変更しにくくなり、硬直する。硬直化したものは、変化に対して脆弱だ。
 脆弱であれば、システムはそのなかに不時の故障、犯罪を呼び込む。だいたいユーザーは、悪意なしに、いい加減なデータをコンビータヘ向こうみずに放りこむものなのだ。そのうえ、悪知恵もとどまるところがない。いたずらもあるし、稀ではあっても、犯罪を犯す人もあるだろう。
 電電公社や都市銀行のシステムでも、故障を起こすことは珍しいことではない。一般ユーザーの信頼性管理水準は、たぶん公社や銀行には劣るだろう。現に、ニューヨークの高校生でも掴境を越えてカナダの会社のコンピュータに侵入できた。この高校生以上の技術を持つもの、この高校生以下の倫理観を持つものは、この世界に多数いるはずだ。
 しかも、大型システムであるほど、故障時のユーザーヘの影響は大きい。とくに、競争相手のない独占的な公共システムのばあい、ユーザーは途方にくれるだけだ。
 こうして、大型情報システムは、ユーザーのアナーキーな行動によって、つねに脅威にさらされることになる。その結果、大型情報システムというものは仮に完成したとしても、その瞬間から崩棲しはじめ、その機能を発揮することはないであろう。これがシステムの分散化を推進する第一の理由だ。
   
● 問われる見識
 情報システムというものは、アナーキズムに対して秩序を維持しようとするために、いつ、どんなデータを、どこからどこまで送ったか、つねにモニターし、ファイルしなければならない。このなかには、与信データ、取引データ、決済データなどもあるはずだ。このとき、このシステムの信頼性管理用のモニター用ファイルは、そのまま個人のプライバシーや企業の秘密に関するデータベースとなるのだ。つまり、情報システムはその信頼性を維持するために、ユーザーの信頼性を潜在的に脅かす行動をとらざるをえない。ユーザーからみれば、自分の秘密を情報システムに預けることと引き換えに、その便益を得ることになる。
 現在、信用情報センターの相互乗り入れ、クレジット・カードの標準化が計画されている。これによって、売り手のほうはオーソリゼーションがより網羅的になり、不良な取引先を避けうるようになる。だが、買い手のほうは、自分の個人データを、売り手に与えるのみでなく、売り手を通じて信用情報センターに預け、さらには、別の信用情報センター、別の売り手へと渡すことになる。それは、海外の信用情報センターや売り手に伝えられるばあいもあろう。つまり、ユーザーの安全性は損なわれることになろう。これを好まぬ人は、カードをダブって持つことをいとわないだろう。ここにシステムの分散化を助長する第二の理由がある。
 アナーギズムに対して効率化と安全性とを同時に確保したいと思う人は、システムの社会化に心を寄せるかもしれない。つまり、効率化を独占的な統一システムで実現し、安全性を公共的な機関に義務づけられた守秘義務で維持できると期待する。この公共性への信頼は、理屈のうえでは「管理社会」を導くこととなる。
 だが、これを目指すものはシジフオスの徒労を味わうはずだ。まず、効率的な統合システムの実現可能性について考えてみよう。強制力によって画一的なシステムを構築することは、先にも示したが、一企業のなかでさえも困難であった。いわんや、この社会には、いろいろな利害、さまざまな知性や倫理観を持った人が存在するわけだ。現に、グリーン・カード制はそれで失敗した。これが、システムの分散化を促進する第三の理由だ。
 秘密保持についてはどうか。ここでは、守秘義務を課せられている公共システムと、競争のなかで信用を失墜せぬように強いられる民間システムとのいずれを信頼できるかということになる(この点、公共システムの開発と運用を民間に任せるなという意見が市民団体や労働組合にある。民間は信用できないが権力者は信用できるという倒錯した論法だ)。
 だが、独占的なシステムは責任について形骸化しやすく、競争するシステムは責任についてはを試行錯誤的に改善を続けていくことになろう。これが、システムの分散化への第四の要因だ。
 とまれ、きたるべき情報社会には、硬直した大型システムと多様化した小型システムが、また、洗練した専用システムと低品質のアマチュア用システムが混在したものとなろう。
 ここでは、ユーザーは、あるいは「魔法使いの弟子」のように自分のシステムに反逆され、あるいは「ハーメルンの笛吹き」に連れ去られた子供のように、コンピュータ大衆化の流れに翻弄されるのだ。
 このとき「見えざる手」も「計画化・管理化」も支配できない。全体的な最適化など思いも及ばない。無駄(たとえば、システム間の非互換性)も多いはずだ。だが、その無駄が多くの人に仕事(たとえば、VANの構築)を用意できる。つまり、情報社会は静的で効率的な社会ではなく、無駄を創出する動的で不均衡な社会になる。情報社会のアナーキズムは多くのビジネス機会を創出することだろう。
 ユーザーがコンピュータ・アナーキズムの呪縛から逃れ、新しいビジネス機会に挑戦するために必要な資質はなにか。それがコンピュータ・リテラシィだ。それは、単に、プログラミングができるということにとどまらない。情報を評価し、分類し、検索する能力、そのうえ、同時にバックアップのために2枚以上のカードを持つ見識、つまり、高い知性を持つということである。
 コンピュータ・リテラシィの有無が、情報社会の住民のあいだに.新しい格差をつくりだすことになろう。

   
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