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   日本データベース協会 最初の10年   
   

   
                                             『DINA 20年の歩み』 (DINA 1999年)より  
   

 DINAが生まれて、もう20年ですか。過ぎ去ってみると、あっけないものですね。とはいいながらも、思い返してみると世の中ずいぶんと変わりました。
 発足時点で参加メンバーがもっとも危惧していたことはなんだったか。「データベース」というキーワードをビジネス界に認知してもらうにはどうすべきかということでした。
 KDDがICASという公衆サービスを始めたのは80年でしたね。インハウスのバッチ処理型SDIサービスはアウトソーシングのオンライン検索サービスにはかなわないのではないか、そんな感触が出てきた時代だったと覚えています。
 だからこそ「データベース」という言葉をどのようにして人口に膾炙するかということがDINA参加者の強い意識でした。その最初の成果が年表の冒頭にある「データベース・サービス業振興のための提言書」でした。いま考えると、直接の商売よりは、商売のための社会基盤づくりに精出していたことになります。データベースも若かったが、みんなも若かった。
 年表を見ると、84年に三菱総研の宮川隆泰さんが座長に選出されております。同時に、私はQUICKの竹内暢行さんといっしょに副座長に選ばれ、DINAとの深い付き合いが始まりました。このとき竹内さんと私は、叩かれ役は副会長二人で受けようと約束しました。役所からの叱られ役は私の持ち分となりました。
 この頃、役所におねがいすべきことはたくさんありました。まず、データ通信制度の自由化。ついでデータベースに関する著作権の認知。さらに、電子的な行政情報(とくに指定統計)の公開やデータベース事業における個人情報保護制度の確立など。私はDINA代表として役所回りをあれこれとしました。著作権法にある「データベース」の定義は、皆さまと相談してまとめあげたものを、内閣法制局がヨシといってくれたものです。
 役所回りをするうえで心強かったのは、JIPDECが優秀な人材をだして支援してくれたことです。とくに田中京之介さん(故人)と鈴木茂樹さん(現ECOM事務局長)にはお世話になりました。いまでも感謝しております。
 話があとさきになりましたが、DINAは85年までは「データベース・サービス業連絡懇談会」と称していました。略して「デベコン」。私はこの略称の品のなさにがまんがならず、異議を唱えていたのですが、どなたにからも同意を得ることができませんでした。私の美意識が偏っていたのでしょうか。さいわいにも、日本データベース協会という筋のよい名前ができました。
 じつは私の任期中に、DINAは存続するのだろうか、もうダメなのではないかと思ったこと二回あります。最初はデータベース振興センターが設立されたときです。業界団体は二つは要らないと役所から圧力をかけられ、これは太刀打ちできまいと私は観念しました。  二回目はJIPDECから独立するという話が出たときです。長年、軒先をお借りていたJIPDECのご意向に反する点もあり、私自身は自前の事務局などとても作れないだろうと弱腰でした。
 だが双方の場合とも、元気のよい会員諸氏に突き上げられ助けられて、なんとか危機を回避することがでました。私にできたことはといえば、こんなにも面倒を見てきたのになんだ、という役所のお小言の聞き役に徹することだけでした。
 10周年号のとき、私は田中京之介さんの追悼の辞を書いた記憶があります。さいわいにもこの10年間は皆さまご健在で、今回は追悼の辞を書かなくてもよいようです。今後もおたがいに健康に留意して、きたるべき30周年を祝福することにいたしましょう。

   
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