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   複製芸術・複製技術・著作権   
   

   
                                   『マルチメディア時代の芸術と社会』 富士ゼロックス 1997年 より  
   

● 「30人の方が1人よりよい」
 マルセル・デュシャンに「L・H・O・O・Q・」という作品がある。あの、モナリザに口髭を付けた肖像だ。モナリザの作者は1519年に死亡しているので、当時から著作権制度があったとしても、その作品の著作権は切れている。したがって、どのように扱おうと文句の出ることはないだろう。
 だが、マリリン・モンローの写真に口髭を付けたらどうなるだろう。おそらく、その写真の撮影者から苦情がよせられるだろう。これは、著作権の用語を使えば、作品の完全性を保障する権利、つまり「同一性保持権」を損じるからである。同一性保持権は著作者人格権の一要素である。
 モナリザを利用したアーティストにはアンディ・ウォーホールもいる。かれはモナリザのコピーを縦横に30枚ならべて「30人の方が1人よりよい」というタイトルを付けた。芸術も大量生産・大量消費の時代になったよ、ということか。じつは、かれはマリリン・モンローの写真についても似たような作品を制作している。もとの写真が映画『ナイアガラ』の宣伝用に作られたということも、その撮影者がだれであるということも分かっている。
 「L・H・O・O・Q・」も「30人の方が1人よりよい」も、著作権の世界のジャーゴンを使うと、これは二次的著作物(ある作品から派生した著作物)ということになる。
ウォーホールは複数の違う写真――たとえばケネディ夫人の写真――を組み合わせて「30人のほうが・・・」的な作品も作っているが、このような作品は編集著作物(複数の作品を編集した著作物)ということになる。建前としては、どちらの著作物も原作者の許諾なしには制作できない作品である。
 ポップ・アートの芸術家は身辺にあるもののコピーを作品の素材として使った。人物写真、コーラ瓶、コミック、星条旗、そしてドル紙幣まであった。話がそれるが、人物写真のコピーは著作権と同時にプライバシー権または肖像権あるいは名誉棄損の対象であり、コーラ瓶のコピーは意匠権の対象であり、コミックのコピーは著作権の対象であり、紙幣のコピーは刑法の対象である。ただし、国旗のコピーは権利(たとえば商標権)の対象にはならない。もちろん、コーラ瓶にせよ、国旗にせよ、これらを固定した写真や絵画があれば、写真や絵画は著作権法によって著作物として定義されているので、それらは著作権をもつ。
 ポップ・アートの制作者たちは二つのグループに分けられるという。ロイ・リキテンスタイン、トム・ウェッセルマン、ジェームズ・ローゼンクイスト、クレス・オルデンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ。これが第一グループ。ロバート・ラウシェンバーグ、アンディ・ウォーホール。これが第二グループ。どこが違うか。第一グループは著作権訴訟に巻きこまれたことがない。第二グループにはそれがある(だが判例データベースを引いてもその判例は見つからない。法廷の外で取引したためか)。どうしてこのような違いが生じたのか。前者はシングル・コピーしか作らなかった。後者はマルティプル作品を制作しているからだ。やや疑わしいが、こんな説をメアリ・カーターというインターネット上のアーティストが述べている。
 ここで第一の結論。複製芸術の普及は著作権付与の基準をあいまいにしてしまった。
   
● 「メディアはメッセージではない」
 ディジタル画像について考えてみよう。技術的にいえば、これは一つの平面をたくさんの画素に分割し、それぞれの画素に濃淡を割り当てたデータ群である。つまり、その画像はp行q列の空欄に1からrまでのの数値を書きこんだ2次元の表に還元できる。
 ディジタル画像の制作については、それをインプット重視のモデル、あるいはプログラム重視のモデルとして説明することができる。かりに、それらをコピー・モデルと演算モデルと名付け、それぞれと著作権との対応を確かめてみよう。
 まずコピー・モデルから。既存の画像――つまり二次元に展開してあるデータ群――があり、それをそのままスキャナーでコンピュータに読みこむ。これだけである。ここではプログラムの役割は「インプットのi行j列にある画素をアウトプットのi行j列に移せ」ということにすぎない。このプログラムがもつインテリジェンスは乏しい。
 ここでは、もとの画像(たとえば舞姫の肖像画)が著作権をもてば、その著作権はコピー(舞姫の肖像画のコピー)にも及ぶ。逆に、もとの画像(たとえばバルコニーの設計図面)に著作権がなければ、そのコピー(バルコニーの設計図面のコピー)も著作権をもつことはできない。
 かつてメディア論の大家が「メディアはメッセージである」といった。このとき、メディアは人間のもつ機能を拡張するものであるという認識があった。つまり、メディアAに固定された著作物をメディアBに写像することは、もとの著作物になんらかの知的要素を付加するという理解があった。
 だが、1990年にニューヨーク地裁はそれに「否」という判断を示した。その判決文には「メディアはメッセージではない」という文章が引用されている。この訴訟ではアート・ロジャースがジェフ・クーンズを著作権侵害として訴えていた。争点は原告の写真を被告が彫刻に変換したことにあった。原告の写真では子犬を4匹づつ抱えた男女がベンチに並んで座っていた。被告の彫刻もまったくおなじ構成であり、違う点は、前面からみて背景が消えていることだけであった。
 つまりコピー・モデルにおいては、原作品の著作権がそのまま制作したディジタル画像に及ぶというルールがある。
   
● 「バルコニー」をめぐるカット・アンド・ペイスト
 「コピーしやすい」ということは「カットしやすい」ということでもある。この双方を組み合わせれば「カット・アンド・ペイスト」という操作は簡単にできる。つまり、ディジタル画像においては、コラージュやフォト・モンタージュは簡単に実行できる。たとえば、手元に舞姫の絵画とバルコニーの図面があれば、これらをスキャナーで読みこみ、それらをカット・アンド・ペイストして「バルコニーの舞姫」というディジタル画像を制作することができる。このディジタル画像の著作権はだれのものになるのか。
 じつは、このような操作は前ディジタル時代にもあった。たとえばマネは「バルコニー」という作品を制作したが、これはゴヤの「バルコニーのマヤたち」という作品をスキャンし、それをカット・アンド・ペイストしたようなものである。このマネの作品にさらに 類似の操作をして、マグリットは「透視画法 マネのバルコニー」という作品を作った。
 ここでは舞姫の像が棺の像に変身している。逆に、マチスはマネの作品から舞姫の像をカットして「コリウールのフランス窓」を描いた。  この種の操作によって作った作品を私たちはパロディと呼ぶ。このパロディを著作権法はどのように理解しているのか。ここにつぎの問題がある。第一に、マネもマグリットもマチスも、先行者の著作物をコピーしたことになる。第二に、かれらはコピーにあたって、先行者がもつ同一性保持権つまり著作者人格権を侵害したことになる。こう、言い切ってよいか。
 まず、パロディ即コピー論についてはどうか。もし、この意見が通れば、パロディを作るにあたっては著作者の許諾が条件になる。パロディは批評の一形式であり、そうであれば、この条件は表現の自由を限定することになる。
 この問題をめぐって、1993年、米国の最高裁は、音楽に関してではあるが、一つの判断を示した。それはエイカフ・ローズ対トゥー・ライブ・クルーの訴訟に対するものであった。原告はリリックなポップスの権利者、被告はそれをディジタル・サンプリングしてラップ・ミュージックに仕立てた演奏家であった。
 法廷は答えた。「パロディは公知の表現をコピーするという特性をもつものである。パロディの面白さや批評性はオリジナルを歪ませ、模倣することによって引き出される。パロディ版はこのために必要な最小限のコピーをしているのみである。これは著作物の公正使用である」。公正使用とは、米国法が示すものであり、批評、研究、教育、報道など公共性のある使用に対しては著作権を制限できるというルールである。日本法にはない。
 ここで第二の結論。パロディは著作権にとって大きい脅威になるだろう。
   
● 「俗悪さもメッセージである」
 パロディ論をつづける。著作者人格権との関係についてはどうか。エイカフ・ローズ対トゥー・ライブ・クルーの最高裁判決をみると人格権への言及はない。だが、控訴審はパロディを可とした少数意見で著作物への毀損をよしとする判断を示した。「被告のラップ・ミュージックはどうしようもなく俗悪だが、にもかかわらず、<俗悪さもメッセージである>」。ここには原作品の人格権よりもパロディの創作性を評価する判断がある。
 なぜ、人格権への言及がなかったのか。ここで著作者人格権について寄り道をしたい。著作権制度の国際標準はベルヌ条約に示されている。ここには著作権は天賦の自然権であり、したがって人格権は不可侵という原則がある。いっぽう、米国における理念は、著作権は経済権であり、したがって人格権に優先するという原則である。つまり、著作権ビジネスについて世界最大の市場をもつ米国は、長年にわたり人格権の保護を国際標準の枠外で運用してきたことになる。
 げんに米国においては、著作者人格権は「視覚美術著作物」というカテゴリーに対してのみ導入されているにすぎない。しかも、その視覚美術著作物の定義はきわめて限定的である。第一に、署名かつ作品番号入りで、200部以内の絵画、図面、彫刻、写真のみが対象となる。第二に、はじめに他のメディアに記録されたものは外している。したがって、ポスター、地図、技術図面、模型、応用美術、映画、書籍、雑誌、データベース、電子情報サービス、電子出版などからの二次的著作物は対象外となる。第三に、団体がその職員に制作させた著作物(職務著作物)も外している。つまり、映画、データベース、プログラムなどの著作物も対象外となる。
 著作者人格権を軽視する米国の論理はしだいに国際化しつつある。米国はガットのウルグアイ・ラウンドにおいて主導的な役割を演じ、1994年に「知的所有権の貿易的側面に関する協定」をまとめあげた。この協定は、自由貿易体制下における知的所有権の保護について国際的な原則を示しているが、ここでは、著作者人格権という用語は意図的かつ明示的に省かれている。
 ここで第三の結論。著作者人格権はその有効性をしだいに失いつつある。
   
● 「線のあるコンポジション」対「線のあるコンピュータ・コンポジション」
 ディジタル画像に話をもどす。演算モデルは、コピー・モデルに対して、それをどんなものとして理解したらよいか。あるプログラムがあり、これによって2次元のデータ群をアウトプットとして作りだす。このプログラムは「i行j列にkを書け。kの値は<これこれのアルゴリズム>で計算せよ」という形式になる。例をあげれば、ガラス球が周囲の像を反射・透過する画像、ブラックホールを可視化した図面などがある。アルゴリズムは、前者であれば反射と屈折の法則、後者であればKdV方程式(コルテヴェーグ&ド・フリースの方程式)、になる。
 このばあい、アウトプットとなる図像、つまり2次元データ群の著作権はどうなるのか。使ったプログラムに汎用性があれば著作権なし、そうでなければ著作権あり、という説がある。たとえば、光学の法則やKdV方程式を記述するプログラムであれば、それには汎用性はある。だが、だまし画を作るプログラムであれば、たとえば「エッシャー流<物見の塔>生成プログラム」あるいは「ペンローズ型<三角形>生成プログラム」というようになり、これらには汎用性はない、ということになるだろう。
 だが、汎用性があるアルゴリズムを使っても著作権の発生を期待することはできる。パラメータを動かしながらおなじプログラムをくり返し使い、たくさんのアウトプットを作る。このアウトプット群から「これ」といって特定のアウトプットを選ぶ。この選択行為があれば、選ばれたアウトプットには著作権が与えられる。
 たとえば、ベル研究所のA・M・ノルは「線のあるコンピュータ・コンポジション」という作品を制作した。その手法はある確率分布で線分を円内にばらまき、これによってモンドリアンの「線のあるコンポジション」をシミュレーションするものであった。かれは線分の長さや幅や間隔についてパラメータを変えながら多数回の計算を実行し、そのアウトプット群からもっともモンドリアンの作品に似たものを選択した。この二つの作品を見た社会人のなかで、原作品を識別できたものはわずか28パーセントにすぎなかった。
 かつてテューリングは機械のインテリジェンスが人間のそれと等価であるか否かを確認するテストを提案した。それは機械のアウトプットと人間のそれとを見分けることができるかどうかを判断の尺度としていた。これをチューリング・テストという。
 ノルのプログラムはこのテストに合格したことになる。とすれば、そのアウトプットは著作権をもつはずである。おそらく、そのつもりがあるためだろう。ノルは自分の作品に著作権表示(サークルc)を付けている。
 ここで整理をしておこう。演算モデルで制作したディジタル画像は固有の著作権をもつ可能性が高い。いっぽう、コピー・モデルで制作した作品の著作権にはインプットの著作権が及ぶ。
 多くのディジタル画像は、第一のコピー・モデルと第二の演算モデルとの中間にある。たとえば、観測衛星によるリモート・センシング画像やコンピュータ・トモグラフィーによる人体の断層写真などがそうだ。ここでは、もとの二次元データ群も寄与しているが、それらを加工するプログラムもその効用を及ぼしている。
 ディジタル画像にはさらなる演算操作を加えることができる。たとえばアフィン変換 つまり拡大と縮小あるいは回転。このほかにも階調、質感、明度などについて、さまざまな操作を与えることができる。これらの操作は、さきのカット・アンド・ペイストの操作と協力して、コピー・モデルと演算モデルとの区別をあいまいにしてしまう。
 行きつ戻りつしたが、ここで第四の結論。複製技術の発展も著作権の付与基準をあいまいにしてしまった。
   
● 「私的使用」から「公衆への伝達」へ
 ここまでディジタル画像の著作権についてあれこれ議論してきたが、じつは現実はもっと過激である。
 市販のパソコン雑誌をみれば、ここにはディジタル画像制作のためのさまざまなツールの広告が溢れている。画像素材集であれば数十ドル、操作用プログラムであれば数百ドル、こんな価格表が付いている。このような高性能かつ低価格のツールの出現によって、著作権ビジネスへの参入障壁は極端に低くなってしまった。
 まず、商品としての著作物のコントロール環境を変革しつつある。かつては画集の印刷にせよ、映画フィルムの現像にせよ、レコードの製作にせよ、そのどれをとってみても、かなりの規模の装置と資本が必要であった。したがって、権利者はこれらプロダクトの生産点さえ握ってしまえば、その流通をコントロールすることができた。
 このような環境のもとではエンド・ユーザーによるコピー行為などネグリジブル・スモールであった。だから制度的にも「私的使用」という著作権の自由港を作ることができた。なお、私的使用とは、個人のエンド・ユーザーに対して著作権フリーで著作物の使用を許す、というルールである。
 だが現在、画集にしても映画にしても音楽にしても、これらはディジタル著作物としてパソコンで制作できるようになった。これによって、ディジタル著作物の生産手段は社会のなかに広く拡散してしまった。このために、私的使用という行為は権利者の経済的な利益に対して、それを損なうリスクをもたらすようになった。
 くわえて、パソコンの普及は「弘法――つまり天才――は筆を選ばず」ではなく、筆つまりツールを選べばだれでも擬似的に天才となりうる環境も作ってしまった。その結果、エンド・ユーザーは著作物をコピーするにとどまらず、そのコピーを再加工し、そのプロダクトをふたたび流通路にのせるようになった。『第三の波』の著者が予言したプロシューマーが著作権ビジネスにおいても出現したことになる。  これだけではない。著作権制度上、ここに決定的なメディアが出現した。インターネットである。このメディアは、かつて局所化されていた私的使用の領域を地球規模に拡大してしまった。私的使用を放置することはもはや不可能になった。
 すでにディジタル・オーディオ・テープ(DAT)というディジタル著作物が私的使用というエンド・ユーザーの既得権益を崩している。このメディアにおいては、私的なコピー行為に対する著作権フリーの原則は廃止されている。ここでは、著作権使用料が機器や記録媒体の価格に上乗せされている。インターネットは、DATがおこなった以上に過激なこと、たとえば私的使用の全廃を、立法者に求めるようになるかもしれない。
 世界知的所有権機関は一九九六年末に新しい著作権条約を採択した。この条約は「公衆への伝達」という用語を再定義した。この用語はこれまでは放送にかかわる権利を正当化する概念を指していた。だが新しい条約は、この概念は「インタラクティブな通信」も含んでおり、インターネットへの著作物のアップロードもここに組みこまれるという解釈を示している。
 ここにはアナログ放送の概念でディジタル通信をも規律しようという意図がうかがえる。法律家は、より硬直した技術にもとづいた法体系で、より柔軟な技術がもたらすプロダクトの流通秩序を制御しようとしていることになる。
 ここで第五の結論。著作権制度の原則は大幅な見直しを迫られている。
   
 ディジタル技術がもたらす環境変化に対して著作権制度は適応しうるのだろうか。エンジニアは「疑わしい」というだろう。だが、ロイヤーは「もちろん」と答えるに違いない。そこにロイヤーのビジネス機会があるためだ。

   
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