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   ブラック・マンデー   
   

   
                                                    『科学朝日』 54巻11号 1994年 
   

 1987年10月19日、米国では株式市場で史上最悪の暴落が生じた。「暗黒の月曜日」の出現だ。この1日で米国では5,000億ドルが消えてしまった。さっそく犯人探しが始まった。
 まずコンピュータ・トレーディングが市場攪乱の被疑者になった。たまたま、前週の市場関係者は先物市場の相場に対して割高観をもっていた。
 したがって、ほとんどの機関投機家はコンピュータに、月曜の朝、同一の指令「売り」を与えた。かれらのコンピュータは大同小異のプログラムをもっており、とうぜん同様の結果を出力した。その結果、先物市場は売り一色になってしまった。
 だが、受けて立つスペシャリスト(公認の仲買人)はそれに対する資金をもっていなかった。銀行は資金を出し渋った。取引所では、はじめの1時間、ほとんど取引が成立しなかった。
 いっぽう、プログラムのほうは、買い手があるものとして設計されていた。コンピュータは売りの指図を出し続けた。売りと買いとのアンマッチングは市場の混乱にシナージー効果をもたらした。
 主要な取引所は米国には二つあり、一つはニューヨーク証券取引所(NYSE)であり、株式の現物を扱っていた。もう一つはシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)で、先物やオプションを扱っていた。後者は「タマゴ・バター取引所」から発足した機関だが、伝統あるNYSEより新商品の開発に熱心だった。
 NYSEのほうは信頼性の高さで評判のタンデムを140台導入してDOTというメッセージ交換システムを構築し、顧客からメッセージを受けていた。かれらのメッセージはバロースの大型コンピュータに渡され処理されていた。CMEのほうはコンピュータを持たず、顧客からのメッセージを2,000回線の電話で受け、それを人間が処理していた。
 だがNYSEにしてもDOTのプリンターの速度が遅く、大量の注文を裁くのに手間取った。しかも、一時、運悪く故障してしまった。これが混乱を助長した。
 いっぽう、電話で注文する膨大な個人投資家は、コンピュータ間通信に比較して2桁ないし3桁小さい伝送量しかもたない。取引単位が少ない。したがってトレーダーからも相手にされなかった。通信路の性能低下は、市場の流動性を妨げ、混乱を一層大きくした。個人投資家のなかには、自分のトレーダーへの注文がどう処理されたのか、翌日まで不明のものが多かった。
 翌日も危機は続いた。だが意外な買い注文が入り、これがきっかけで市場の秩序は回復した。だれかによる市場操作の疑いがあり、もしそうであれば違法であった。だが、これについてだれも詮索するものはいなかった。このようにして、2日目の「恐怖の火曜日」は閉じた。NYSEの会長は、どうやらメルト・ダウンを避けえたと安堵した。
 20世紀前半の経済学者ケインズは、株式の運用についても才能をもっていた。かれは、美人投票ではだれもが美人と思う人間に投票せよ、株式投資も美人投票と同じだ、と主張した。
 だが、20世紀後半になると市場取引は主観的な美人投票のレベルを超えて、はるかに洗練されたものになる。デリバティブ(金融派生商品)の出現だ。そのきっかけをつくったのがマコービッツだった。この業績によって、かれは後年ノーベル経済学賞を受けた。
 かれはシンクタンクのランド・コーポレーションの研究者として、ハイ・リスク・ハイ・リターンの株式と、そうでない債券に分散投資すれば最適な利回りを得ることができるというモデルを発表した。このような分散投資をポートフォリオという。この延長上にS&P500種先物指数(株式の時価総額から算出)などという数値がデリバティブとして出てきた。
 この先物指数は通貨、債券、商品に関する数値の組合せとして考案されたものであり、このような抽象的な数値が商品になるのは、S&Pでいえば指数の1単位を5,00ドルの金額に換算するからである。
 つぎが、コンサルタント会社アーサー D. リトルのブラック。かれは同僚のショールズとともに、得体が知れないとされていたオプション(後述)を数式化することに成功した。この式は熱伝動方程式に似ている。かれらの評価式はたった6個の変数しか含まないエレガントなものでブラック=ショールズ・モデルという。
 オプションとは先物市場で株式や債権を売買する権利を指す。もし、先物価格の見通しが誤り、その売買をキャンセルしたければ、かれはオプションの手数料のみを支払えばよい。
 80年代後半になると、機関投資家はクレイやシンキングマシンなどのスーパーコンピュータを導入し、ここにマコービッツやブラック=ショールズのモデルを組みこんだ。かれらのシステムは、一刻も早く取引所に指図をするために、市場の変化に対応しつつ時々刻々と投資の最適条件を計算することを競った。
 もちろん、個人投資家向けとしてもマコービッツの数式はパソコン用のソフトウェアとして99ドルで販売され、ブラック・ショールズの式をプログラムできる電卓も出荷されるようになった。
 このような環境がコンピュータ・トレーディングを洗練させた。これには二つの方法があり、一つは「指数裁定取引」といい、現物価格と先物の理論的価格を比較し、割高のものを売り割安のものを買うという方法である。もう一つは「ポートフォリオ・インシュアランス」といい、これにポートフォリオとオプションを組み合わせた高度に数学的なデリバティブである。
「暗黒の月曜日」に対するコンピュータ主犯説は1929年の「暗黒の火曜日」に対する電話主犯説を想起させた。このとき電話メッセージの異常トラフィックが市場を混乱させたという議論があり、当時の政治家は市場で電話の使用を禁止する法案を提出したのだった。
 「暗黒の月曜日」の後、機関投資家はプログラム・トレーディングを自粛したが、なしくずし的に元にもどってしまった。ただしDOTは拡張され、個人投資家は不利を負わないようになった。
 規制当局はただちに原因調査がはじめた。大統領特別委員会、議会会計検査院、証券取引委員会など。だがどの報告もプログラム・トレーディングを主犯人として決 めつけることはできなかった。
 歴史をたどると投機システムのクラッシュは頻発している。18世紀、南海会社のクラッシュで被害を受けたニュートンは語っている。「私は天体の動きは計算できるが、人間の狂気は計れない」。20世紀の高度技術も人間の狂気を抑制できなかった、ということだ。
   
〔参考文献〕
 木皿昌夫・吉川満『ウォール街・1990』 近代セールス社         

   
    名和小太郎   書評の背景(3)                         トップペ−ジへ   「書評の背景」リストへ   次へ   前へ