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   「コンピュータ西暦2000年問題」はなんであったか   
   

   
                                                    『UP』 33巻7号 2004年 
   

コンピュータ西暦2000年問題――略称Y2K問題――という世界規模の危機があった。それは2000年1月1日午前0時0分に旧式のコンピュータが誤作動を起こしてしまい、このために地球規模で社会生活に大きい混乱が生じるだろう、というリスクを指した。このリスクに対応して各国の政府や企業はさまざまな危機管理対策を実行した。たとえば、米国の連邦準備委員会は紙幣を500億ドル――通常通貨供給量の3分の1相当――増刷し、混乱下で予想される国民の現金引き出しに備えたという。だが、現実には恐れていた大規模の事故は起きなかった。危機は回避された!
 2000年3月、米国の2000年変換大統領委員会は「米国および世界は2000年への移行を成功裏に実現した。それは偶然そうなったのではない。この疑うことのできない成果は人と資源の巨大かつ世界的な動員の結果であった」と総括した。
 話が後先になったが、Y2K問題とは、旧式のコンピュータが西暦の年号表示を下2桁としていたことで2000年が「00」となり、これを1900年と誤って解釈してしまうことに原因があった。これによって、旧型のコンピュータは誤表示、誤作動、あるいは停止してしまうだろうというリスクが予見された。その兆候は1990年代になってからACM(計算機学会)がときおり報告していた。
 じつは年号の下2桁表示は、草創期のコンピュータ技術によって縛られ、技術標準として定められたものであった。したがって、バグ(欠陥)ではなかった。とすれば、この標準を装備したハードウェアやソフトウェアの製作者に責任はなかった。国際標準に四桁表示が加えられたのは、なんと1988年になってからであった。
 Y2Kのリスクを除くためには、コンピュータ・ユーザー−−政府機関、民間企業など−−は自分がこれまで作成したプログラムを全数検査し、もし2桁表示が残っていれば、その桁数を4桁に改めるか、あるいはその2桁に関する解釈を変更しなければならなかった。この作業は煩雑であり、さらに基本プログラムやハードウェアがY2Kに対応できない場合には、それらを買い換えなければならなかった。これはユーザーに大きいコスト負担を強いるものとなった。Y2K対策のために投入すべきコストを、米国政府は全世界で3000〜6000億ドルと試算していた。この数字の上下限の幅の大きさはY2K問題の不得要領さを反映していた。
 Y2K対応への負担は、政府機関、民間企業を問わず、また企業であれば零細規模であっても赤字経営であっても、それから逃れることはできなかった。くわえて現在のコンピュータはネットワークによって相互接続されており、一つのシステムといえども、その不具合はドミノ倒し的に周辺のシステムに、しかも国境を越えて、伝播するはずだった。にもかかわらず米国では、半年前になっても85万社の小企業がなんの対策もとらないという判断をしていた。また、世界銀行が一年前に実施した調査によれば、世界でY2K対応の行動を起こしている国は21ヵ国にすぎなかった。
   
 このような事情があったために、Y2Kのリスクが回避されたのは奇跡に近かった。米国大統領府の前記報告はこれを誇示したものであった。だが、それにしてはシステムの関係者−−業界もユーザーも−−の応対は歯切れが悪かった。みずからの手柄を誇るような言説はまったくなかった。なぜか。三つの理解がありうる。その一。対策は有効であったが、ユーザーはこれに便乗してシステムの更新や増強した。つまりY2K投資の水増しがあった。その二。事故は生じたが、それは予想されたものより小さかったので、社会的な反響を呼ばなかった。その三。そもそもリスクは存在しなかった。私の答えは、これら三つの理解はともに正しかった、というものである。
 まず多くのユーザーはY2K対策を実行した。日本についてみれば、大規模ユーザーは1980年代以降に実施したシステムの交替時期−−たとえば銀行の第3次オンライン化――にすでにY2K対策を取り込んでいた。平成の改元時点にこの対策を実施したユーザーもあった。かりに積み残しがあったとしても、かれらはプログラムを改修する能力と資力をもっていた。同時に、かれらはこの改修を旧システムに対するスクラップ・アンド・ビルドの投資機会へと転化する器量ももっていた。いっぽう小規模、零細ユーザーは小型かつ短寿命のコンピュータを保有しており、こちらはシステムの丸ごと更新のほうがコスト安になった。いずれにしても、理解その一は正しかった。付け足せば、多くのベンダーは旧製品へのY2K対応を意図的に怠り、ユーザーを新製品へと誘導していた。そこには千載一遇という商売気も透けて見えた。
 ただし、現実には小さい事故は発生した。たとえば、1万人規模、コンピュータ利用歴半世紀の企業の内部資料をみると、事故数は、事務システムで47件、生産システムで11件であった。ただし、いずれも軽微なものであり社外に影響を及ぼすものではなかった。つまりY2K事故の影響は、そのほとんどが社会や生命の安全には及ばず、せいぜい会計計算どまりであった。この型のこの程度の事故は多くの企業でも生じたというが、ニュースにもならず政府統計にも集計されなかったとみることができる。ということで、理解その二も正しかった。
 ついでながら、上記の企業は模範的なY2K対策を実施していたが、あと知恵でいえば、その対策を実施しなかったほうが全コストを節減した可能性もある。かりに社外に波及する事故が生じ、そのために損害賠償を支払ったとしても、また保険料を負担したとしても、そのほうが安上がりであったかもしれない。とすれば、問題はなぜY2Kに企業が巨大な投資することに踏み切ったかということにある。企業はY2Kをまえにしてなにもしないという選択−−戦線離脱戦略−−もとれたはずであった。
 Y2Kにはもう一つ厄介な課題があった。組み込みマイクロチップに対するそれであった。現在、社会にあるさまざまの機器−−自動車、医療機器、工場など−−には制御用のチップが組み込まれているが、このチップにもY2K問題があるのではないかというリスクがあった。これらのチップに対しては、メーカーもユーザーもその存在を把握できず、いわんやそこに隠された機能を推測することもできなかった。一説によれば、そのような管理者不在のチップが地球上に100億〜250億個あり、その0.2〜1%がY2Kがらみの事故を起こすとされていた。
 一般論としては、この種の制御用のチップが日付をもっていることはなく、それらはY2Kとは無縁であるとみなされていた。しかし、だれかがここに年号依存の機能を組み込んでいるかもしれず、それはまったく不明であった。したがって、ユーザーとしてはできるだけ点検はしてみるが、あとは成り行きにまかせるという方針をとらざるをえなかった。ここがY2K問題にとって最後までリスクを図りかねた点であった。さいわいにも現実にはチップによるY2K事故もほとんどなかった。つまり、ここにリスクは存在しなかったことになる。理解その三も正しかった。
   
 1970年代、私は企業の情報システム部門で仕事をしていたが、そのとき同僚の一人は世紀末のプログラマーは不幸だねと呟いていた。その後、四半世紀のあいだ、Y2Kを予見したプログラマーは多数いたはずである。Y2Kについて最初に警告したのはアスキー・コードの設計者R.ベーマーであり、それは1971年であった。またY2Kについて最初の記事を発表したのは雑誌「コンピュータ・ワールド」であり、それは1984年であった。
 だがプログラマーは、私を含めて黙っていた。なぜか。それはプログラムが人間の目には単調にすぎ、その脳には複雑にすぎるということがあって、そこにバグを隠しやすく、このためにその書き直しが面倒だということにあった。したがって、いったん作られたプログラムは可能なかぎり使い込む−−これがプログラマーの流儀であり、そのためにプログラムはレガシー(遺物)になりやすかった。私自身、Y2Kの直前に、自分が1970年代に書いたプログラムがまだ動いていると伝えられ、呆気にとられたことがある。
 あれやこれやで、現場のプログラマーが自分のプログラムが世紀末にも使われているだろう、あるいは自分も世紀末にプログラマーとして仕事をしているだろう、と予測するようになったときには、すでにY2K不適合型のプログラムは広く拡散しており、これをプログラマー自身がコントロールすることができなくなっていた。ここに官僚と政治家が介入し、その先兵として法律家が参入してきた。話は米国に移る。
 1998年、クリントン政権は前記の委員会を設置した。これは政府機関のY2K対応行動を監督し、民間企業のそれを支援するための組織であった。同時に、議会はY2K情報対応開示法、Y2K法などを制定した。前者は、企業が開示したY2K対策関連情報に万一誤りがあった場合にもそれに法的責任を問わない、というものであった。これはY2K情報の公開を積極化させる誘導策であった。また後者は、予想されるY2K関連紛争における損害賠償額に上限を設けるなどしていた。これは訴訟洪水を抑える狙いをもっていた。
 この後、Y2K対応をめぐって企業間に「ペーパー・ブリザード」が吹き荒れた。ユーザーはベンダーに、また取引関係にあるユーザーは相互に「Y2K適合保証書」のたぐいを求めた。この種の文書は相手企業にY2Kがらみの社会的責任を質すという役割をもっていた。この流れが日本にも流入した。日本では法律こそ制定されなかったが、政府と公認会計士協会はY2K対応策とその進捗度について開示することを各企業に要請した。これは日本企業の経営者にY2Kの深刻さを訴えるものとなった。多くの企業は副社長級を責任者とするY2K委員会を設置した。この組織が日本企業に巨大なY2K対応投資を決定させたことになる。
 情報システムに対する経営層の関与は、1990年代初頭以降、SIS(戦略的情報システム)、CIO(情報システム担当役員)といったジャーゴンとともに求められていたが、じつは名目的なものにすぎなかった。それがはからずもY2Kに対するリスク・マネージメントとともに日本企業でも実現したことになる。
   
 Y2K対応に使われた予算は米国政府のみでも300億ドルに達したという。これはハードウェアおよびソフトウェアのベンダーに流れたはずである。また、米国におけるY2Kからみの訴訟費用と保険金の支払額は、総計で150〜350億ドル――全米企業の年間収益の10%――になると予想されていた。だが、こちらは皮算用のまま終わった。コンピュータ業界は潤い、法律・保険ビジネスの業界は事業機会を逸したことになる。あるユーザー企業の経営者は漏らした。なにやら化かされた感じだ。                   

   
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