ブック・サーチ1     

   
  グーグルが作る「著作権2・0」の衝撃    

                           『エコノミスト』 6月23日号 2009年
   

● 問題の発端
 「全世界の情報を組織化し、普遍的にそれにアクセスし、それを使用する」。これはグーグルの社是である。
 グーグルはこの社是を、グーグル・カタログ(2001年)、グーグル・ニュース(02年)、グーグル・マップ(04年)、グーグル・スコラー(04年)、グーグル・アース(05年)、USガバメント・サーチ(06年)、パテント・サーチ(06年)というように実現してきた。現在、話題となっているグーグル・ブック・サーチ(以下、ブック・サーチ)は、この流れのなかにある。
 そのブック・サーチは書籍を地球規模――主として英語圏――でデジタル化し、それをユーザーにサービスすることを狙っている。
 このシステムは二つのサブシステムからできている。一つはパートナー・プログラム(以下、Pプログラム)、もう一つはライブラリ・プロジェクト(以下、Lプロジェクト)である。前者は出版社が現に販売している図書を、また後者は図書館が所蔵している図書を、それぞれ対象としている。いずれもデジタル化の費用はグーグルがもつことになっている。
 まずPプログラムであるが、こちらは著者、出版社とグーグルとのあいだの契約になっており、著者、出版社はデジタル化された書籍の利用について、一定の制限をかけることができる。たとえば、検索は全テキストにわたってできるが、本文の表示は検索語を含む5ページしかできない、といったことがある。ただし、同じページにたとえばアマゾンの広告が表示される。つまりPプログラムは、著者と出版社にとってマーケティング手段となっている。
 いっぽう問題のLプロジェクトであるが、ここでは図書館――ハーバード大学図書館など――がグーグルの相手であり、著者と出版社とは外されている。こちらでは、著作権の切れた本、切れない本を問わず、また、刊行中の本、絶版本を問わず、デジタル化の対象になりうる。
 だからか、ユーザーからのアクセスについては、全文表示可、抜粋――検索語を含む数行――表示のみ、表示なし、といった制限がかけられている。こちらはアマゾンではなく、所蔵図書館にリンクが張られている。
 ということで、たとえば「プリンキピア」という検索語を入れてみると、ニュートンの本もラッセル&ホワイトヘッドの本もでてくる。ただし、前者では全文を表示できるが、後者では部分的な表示しかできない。
 だが、著者も出版社も、Lプロジェクトによって自分たちの著作権が侵害されることを恐れたようである。
 ブック・サーチの計画が発表されると、米国の作家ギルドと全米出版社協会はグーグルを著作権侵害のかどで訴えた。図書館の所蔵する書籍のなかには自分たちが著作権を保有しているものがあり、その無断でのデジタル化――全テキストのスキャン――は著作権侵害になる、という申立てであった。
 2009年、この訴訟について当事者間の和解が成立した。それは大筋としてグーグルの立場をよしとするものであった。
  
● オプトイン 対 オプトアウト
 いま、書籍の無断デジタル化が著作権侵害になる、と言った。この意味を詰めてみよう。
 この訴訟をきっかけに、ブック・サーチについてあれこれの意見が公表されるようになった。米国のロー・ジャーナルをみると、この数年間に100編をこえる論文が発表されている。これらの論文を見渡してみると、キーワードはグーグルの「オプトアウト」という手順にあることが分かる。
 オプトアウトとはなにか。XのYに対する行為Aについては原則自由、もしYがこれを禁止したいのであれば、そのYは「ノー」と言え、という手順である。
 オプトアウトがあれば「オプトイン」もあるはず。そのオプトインとはどんなものか。XのYに対する行為Aについては原則禁止、もしYにその例外を認めてほしいXがいれば、そのXは前もってそう言え、そしてYの「イエス」という答えを得よ、という手順である。
 当面の話題に即していえば、グーグルはオプトアウトで行動している。グーグルは自動的かつ無差別にあらゆる本をデジタル化する、もし、これに同意できない著者などがいれば、その人は「ノー」と言はなければならない。
 いっぽう現行の著作権法はオプトインを原則としている。もし、クーグルがどんな本であれ、そのデジタル化を望むのであれば、グーグルはその著者あるいは出版社に対して個別かつ事前に「デジタル化を許可せよ」と求め、「イエス」という回答をとらなければならない。これが作家ギルドと全米出版社協会の言い分であった。
 つけ加えれば、オプトインは米国著作権法においても、さらにその上位のベルヌ条約においても、その第一原則とでもいうべきものである。ここにオプトアウトを認める余地などまったくない。こう、正統派のロイヤーは断言するはずである。
 とすれば、グーグルの仕業は現行の著作権制度に対する真っ向からの挑戦、ということになる。その目指すものはなにか。それは時流にのった言い方をすれば、「著作権2・0」でもいうべきものだろう。
  
● 著作権2・0へ
 いま著作権2・0と言った。しからば著作権1・0とはなにか。それは現行の著作権制度を指す。その現行制度の骨格は19世紀末のものである。原ベルヌ条約は、著作物としてテキストと絵画、図面、それに楽譜しか示していない。つまり、現行のベルヌ条約には、19世紀末の知的環境が色濃く染みついている。
 19世紀末の知的環境とはどんなものであったのか。その一。著者は少数の天才、読者は無数の大衆。著作物は著者から読者に一方向的に流れる。その二。著者は著作物の流通チャネル――出版社、書店など――を完全にコントロールできる。くわえて読者はいかなるコピー手段ももたない。
 20世紀になってから、ここに写真、レコード、映画、放送、ゲーム、プログラムなどが無理やり放りこまれた。そのあげくインターネット関連アプリケーションまで詰め込まれた。
20世紀末、ベルヌ条約はそのうえにWIPO著作権条約という2階を載せたが、それは19世紀の骨格を残したままでなされた。その骨格がオプトインという原則であった。
 だがどうだろう。21世紀初頭においては、19世紀の知的環境は完全に消えてしまい、新しい知的環境とへ交替している。
 まず、著者すなわち読者という関係が作られた。プロシューマーの誕生である。同時に、著作物が著者と読者とのあいだを双方向的に往復するようになった。往復のたびに付加価値をのせながら。つぎに、読者が高性能のコピー装置と流通手段をもつようになった。パソコンとインターネットである。
 この環境変化のために、ベルヌ条約の骨格を残した現行制度はボロボロになっている。米国でも日本でも、毎年のように著作権法を改正――じつは継ぎ接ぎ――している。これが著作権1・0の実態である。
 ここにグーグルがオプトアウトという方法によって現行著作権制度の組み換えを提案してきたことになる。この新しい仕掛けをウェブ2・0にならって、著作権2・0と呼んでみたらどうか。あらずもがなの注を付ければ、ウェブ2・0とはインターネット上における集合知の新しいあり方を指す。
  
● オプトアウトの正当化
 なぜ、グーグルはオプトアウトにこだわるのか。オプトインにすると法外なコストがかかるからである。
 すべての著者がベストセラー作家ということではない。ほとんどの著者はロングテールの部分に埋没している。したがって、その著者が生存しているのかどうか。その著書の著作権が保護期間内にあるのかどうか。保護期間内にあるとしても、当人にアクセスするための住所を知ることができるのかどうか。当人死亡の場合、その相続者にアクセスできるのかどうか。いずれも不確かである。
 オプトインの立場をとるかぎり、事前にこうした確認をとる必要がある。だが、そのためには禁止的なコストがかかる。現に日本の場合であるが、国会図書館が明治期、大正期の雑誌のデジタル化を実施したときには、確認のとれた著者は約3割に過ぎなかった。
 確認のとれなかった著者の著作はどうなるのか。そのままデジタル化されることもなく、ロングテールのなかに埋もれてしまうだろう。このような著作物を「孤児の著作物」と呼ぶ。
 話をもどせば、オプトインのもとでこの制度の恩恵を享受できるのはベストセラー作家にすぎない。そうではないロングテール型の著者にとって、その著書は死後70年(日本では50年)、著作権の保護期間が切れるまで、デジタル化されることもなく、放置されるかもしれない。つまり、オプトインという制度は、その著作の有効活用を抑圧する仕掛けとなってしまう。
 だが、埋没型の著作であっても、デジタル化してあれば、それが有効利用される可能性がある。これがグーグルをはじめとする検索エンジンの実証したことである。
 もう一つ。読者からみれば、ロングテール型図書にアクセスできることに大きいメリットがある。ここでロングテール型の著者のデジタル化を抑圧すれば、それは、あらゆる層の読者――趣味人、生活者、実務家のいずれであっても――から、アクセスできるはずの本を遠ざけてしまうことになる。
 ということで、オプトインの強制は、著者にも読者にも見逃せない機会損失を与えることになる。
  
● ビジネス・モデルの世代交替
 グーグル問題には、現時点では表面化こそしてはいないが、もう一つの論点がある。それはユーザーが無料でインターネット上の著作物にアクセスできるという慣行にある。著作物の創作、流通のコストは第三者――たとえば広告主――に転嫁されている。
 すでにユーザーはこれに慣らされている。書籍の著者や出版社は、デジタル化された書籍にこのような慣行の及ぶことを恐れているのだろう。
 だが、デジタル化著作物を無料とするビジネス・モデルは、すでに書籍出版の隣接分野で現実的なものとして受け止められつつある。それは、理工系、医学系学術雑誌の出版分野においてである。
 この種の学術雑誌については、この数年来、とくに米国において、そのオープン化の動きが活発になっている。
 この動きは、技術的には雑誌の電子ジャーナル化により、制度的には医学情報公開という公共政策によって推進されている。社会的には公共図書館が積極的に関与している。もちろん、著者としての研究者のなかにも、これに参加するものが少なくない。
 しからば、その出版コストは誰が負担するのか。著者自身である。この流れは出版社も無視できない勢いをもつようになっている。エルゼビアのような巨大学術出版社も、このような自費出版をそのビジネス・モデルに組みこむようになった。論文の執筆者は1論文あたり、たとえば3000ドルの投稿料を支払う。
 このモデルをそのまま通常の書籍に拡張せよというのは暴論だろう。だがかつて、出版はパトロンが負担するというビジネス・モデルがあった。新しいパトロンをどこに探したらよいのか。私たちはその解を求めなければならない。ブック・サーチはその試みの一つといえるかもしれない。
 著作権2・0は新しいパトロンを支える制度でなければならない。(私は素案をもっているが、それはべつの話題になる。)
  
● 和解結果が国際標準に
 話を進める。私はグーグルの行動をよしとはするものの、グーグルのあり方について、その問題点を指摘しないではいられない。
 この課題は、そもそも米国における一部の著者と出版社のグーグルに対する訴訟に端を発したものである。それが、途中、集団訴訟に発展し、和解として決着した。このために、その結論は、この訴訟の当事者だけではなく、米国内の著者と出版社とをすべて拘束する規範になった。
 これにとどまらない。ベルヌ条約がある。この条約は、加盟国内で発行された著作、加盟国の国民が出版した著作を相互に保護する規定を含んでいる。したがって、日本で刊行された書籍、日本人の刊行した書籍であっても、米国内では米国法によって保護されることになる。さらにその効果はインターネットを介して日本国内にまで及ぶ。
 グーグルの方式は、もとはといえば一私企業の設けたものに過ぎない。にもかかわらず、その適用範囲は、実質的に、米国全域へ、さらに日本へ、そして地球規模へと拡大している。ちなみに、2008年末におけるベルヌ条約加盟国は164にのぼる。
 1私企業でしかないグーグルは、このようにして、正統的な著作権1・0の秩序を崩してしまった。これも現実である。
 ことはブック・サーチにとどまらない。すでに述べたように、それはニュース、学術論文、地図、航空写真に及ぶ。そのサービスは、既存の電話と新聞と放送とを合わせたものに相当する。いずれも当世風の言い方をすればクリティカル・インフラストラクチャーである。この運用を一私企業にすぎないグーグルが一手に引き受けていることになる。
 だがグーグルは、文脈はやや異なるが、自社システムの出力は米国憲法修正1条――表現の自由――によって保護されるとふてぶてしく言っている。私たちは、この点についても眼をそらしてはならない。
  
● 制度は変わるか
 著作権2・0は実現するだろうか。米国には、じつは著作権に対して「公正使用」という迂回路がある。だからここを拡張すればよい。だが、日本にはそれがない。
 とはいうものの、その日本でも、10年前には専門家がせせら笑ったような提案が、いまでは既存制度のなかに、当の専門家諸氏の手によって組み込まれている。時代は確実に動いている。いずれは公正使用の日本バージョンが実現するだろう。

   
    名和小太郎   グーグル・ブック・サーチ(1)
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