ブックサーチ12

   
   インターネット時代の著作権制度      
   

   
                                                『デジタル著作権』(牧野二郎編、ソフトバンク出版、2002年)より 
   

工学畑の出身である私が、著作権の世界に深くかかわるようになったのは、80年代初めに民間企業が結成した日本データベース協会の副会長を務めたからである。業界代表として著作権審議会に参加し、データベースの商用化を進める民間事業者の視点から、著作権について意見や注文を申し上げてきた。
 90年代になって企業から大学へと職を転じ、法律については素人である私が、あろうことか法学部に籍を置くことになった。その後は外野席の一研究者として著作権審議会にかかわることになった。ただし、門前の小僧には法律の難しい解釈は荷が重いのでご免をこうむり、私は素人の立場を押しとおして議論させていただいてきた。
 なにやかやとこの20年にちかく著作権の議論を続けてきたことになる。だが、いまにしてもなお不思議に感じていること、納得がいかないことが少なくない。それを整理してみたい。
   
●ユーザー不在の議論
 世間には著作権をめぐる対立がある。一方の人は「自分の作ったものに権利が欲しい」と主張する。他方の人は「他人の作品を自由に使いたい」と主張する。つまり、著作物の作者は「もっと権利が欲しい」と言い、他人の著作物を使う人は「すでに権利が強すぎる」と言う、これに尽きるのである。この両者の折り合いをどうつけるかというのが、著作権法の役割ではないかと思う。
 ところで「権利がある」という側と「その権利は強すぎる」という側との折り合いをつけるには、両者が首尾一貫した議論を展開してなければならない。だが、じつはこれがなかなか難しい。技術の変化が激しく、ビジネスも多様化している時代のなかでは、ある企業が、ある場合には著作者であり、別の場合には著作物の利用者になるということが頻繁に起きている。
 例えば新聞社の場合、一方では「紙面を勝手にコピーするのは困る」といい、もう一方では「権利が強いと取材がしにくくなる」と訴えるなど、なかなか腰が決まらない。ハードウェア・メーカーの場合には、新しい形の権利(たとえば、デジタル録音録画補償金)が生じればそれだけコストや手間がかるので、著作権には及び腰の姿勢になる。通信事業者(プロバイダー)なども、よけいなルールができると著作物の流通に面倒なことができると考え、新しい権利を設けることに消極的である。つまり、利害関係者の腰が決まらない。首尾一貫した議論ができないということになる。
 また日本の政策決定システムにも障壁がある。ハードウェアやコンテンツに対しては経済産業省、放送や通信に対しては郵政省、文芸、学術になると文化庁などといった具合に、所管の官庁がべつべつになっている。これを一本化する作業は困難である。例えば、通産省はコンテンツとハードウェアの両方の業界を抱えている。だが、それを通産省がまとめきれないから、そのまま文化庁がその問題を背負わされることになる。
 もうひとつ重要な問題として、著作権の議論にはエンドユーザーの声がまったく届かないことがある。例えば、本来の利用者である一般の読者や障害者が審議会に参加することはまずない。つまり、著作権法に関する政策はあくまで著作者と著作物を流通させている人による議論で決まり、エンドユーザーの入り込む余地などない。最近になって多少の変化があり、2000年からようやく教育や図書館が議論の対象にあがってきた。
 一度、ユーザー不在ではないかと質問したことがある。そのとき事務局は私を指してあなたがユーザーであると言った。そののち私はユーザーの勝手連を通すことにした。
   
●{権利の制限」ではなく「権利の分割」
 私が前々から疑問に思っていることがある。それは人間の知識や創作物が先人の業績のうえに築かれてきたという考え方が、著作権の世界では受け入れらないという点である。
 「私がデカルトよりも遠くを見通せたのは、巨人の肩の上に乗ったからだ」というアイザック・ニュートンの有名な言葉がある。ニュートンがロバート・フックと光や重力の問題でプライオリティーを争ったときに、先輩であるフックの顔を立てて彼にこのような手紙を送ったという。ニュートンのこの「巨人の肩の上に」という警句は「自分独りですべてのものを創ることはできない。必ずだれかの作ったものを利用して、そこに付加価値をつけることで新しいものを創れるのだ」というかれの発想を示している。ここに知的財産や創作物の本性があるのではないかと思う。
 じつは、この「巨人の肩の上に」という言葉自体にしてもニュートンの独創でないことが分かっている。1226年に、シャルトルのベルナールという人が「巨人の肩の上に」と言っていることがわかっている。著名な社会学者のマートンが『巨人の肩の上に』という著書のなかで、いつ、だれが、巨人の肩の上に」と言っているかを克明に調べている。13世紀から20世紀に至るまで、例えば医者のクロード・ベルナールや、経済学者のエンゲルスなど、さまざまな分野の人々が「巨人の肩の上に」という言葉を引用している。つまり、知的財産は「巨人の肩の上に」築き上げられてきたということは多くの人の共通認識なのである。「巨人の肩の上に」という発想は、知的財産は分割できる、したがってその権利も分割できる、という発想を導くものである。
 だが、著作権の世界ではこのような考えは通らない。著作者がすべての権利を持っているので、だから「権利制限」というかたちで、例外的に権利の使用を許すという考え方をとっている。私はむしろ、権利制限ではなくて、最初から「権利を分割する」という発想で仕組みを考えた方がいいのではないかと思う。
 「引用」というものがある。引用をシステム的に扱ってきているのは、アカデミーの世界であり、法学から自然科学まで、引用をきちんとした方式でやっている。引用には、ここまでは先人の業績であり、ここから先は私の業績であると、はっきり分割する役割がある。また、ここではいちいちその中身に入らないけれど、必要な人は引用元に自分でアクセスして、そちらを参照せよというのが、もう一つの引用の役割になっている。これは、引用されたものは、その分野の共有の財産であるとみなされているということでもある。引用をきちんとやるかということが、アカデミーにおける研究者の倫理にかかってくる。
 また引用とひとくちに言っても、過剰引用あるいは過小引用という問題もあるし、剽窃と紙一重ということもある。記号論の大家であるウンベルト・エーコが「大家のものは引用せよ。駆け出しの人間のものは黙って使え」と書いているが、半分は冗談としても、そういうことのあることも事実である。だからこそ、引用の「権利を分割する」という機能を重視すべきであろう。私は、引用によって著作者人格権も分割できないかと考えている。
   
●創作あるいは社会批判としてのパロディ
 権利の分割という考え方にたてば、さまざまなことが言える。例えば、パロディがある。権利に対する考え方によって、バロディをどう扱うかは大きく違ってくる。日本ではこれまでの判例も、パロディの創作者に不利なかたちになっている。原著作者の意に反して、作品を切ったり貼ったりするのはまずい、だからパロディは権利を侵害しているという見方が主流である。しかし、本当にそう言い切っていいものなのだろうか。パロディというのは、創作の一つの手法としてすでに伝統的に確立しており、文学にも美術にも音楽にも多くみられる。そうした状況を無視して、ただ抑圧するというのは行き過ぎではないだろうか。
 パロディはもう一つ、社会批判という大事な役割を持っている。パロディというのは、いわば原著作物が、鑑賞する人にわからないのでは意味がないので、それが透けて見えるようになっていると同時に、それを批評するという付加価値が、原著作物に対する変形、分解、合成、つまりカット・アンド・ペイストとして加えられているものである。それが引用された作品の原作者の意に反することは十分ありうる。このパロディは、原著作物の盗用ではないかという議論がある。
 日本の法曹界の先生方の中には、「パロディには、善いパロディと悪いパロディがある」などと言う方がおられるが、では善いパロディと悪いパロディを、いったいだれが決めるのだろうか。アメリカでは、1994年にはパロディを肯定する判決が出ている。判決文は「仮にパロディによって著作物の売り上げや評価が落ちたとしてもそれは仕方がない、パロディは社会批判の一つのあり方である」ときちんと示している。さらに「法律家には善いパロディと悪いパロディを決定する力はない」とはっきり書いてある。この辺りに、日本とアメリカの大きな考え方の違いがあるということだろう。(じつは、米国のパロディ論に欠けているのは著作者人格権の議論である。これは、表現の自由と人格権のどちらを優先するかという課題につながる。
 たまたま2001年度に、文化庁のほうで制限規定を見直そうという議論が出てきているので、ぜひパロディを見直してほしいと発言している。
●プロシューマーの著作権
 現行の著作権制度は、著作者すなわちプロフェッショナル、読者すなわちアマチュアといった構造になっている。だから、エンドユーザーから見ると、著作者の世界はブラックボックスになっている。なにを言いたいかといえば、著作者はエンドユーザーに対してダブル・スタンダードをもっているのではないか、ということである。つまり、著作者は仲間内とエンドユーザーに対して違った対応をしているのではないかという疑いである。
 芸術の世界では、引用やカット&ペーストが自由自在に行なわれている。とりわけアバンギャルドの世界で顕著なのだが、芸術家の方々に会うたびに尋ねるのだが、いまひとつ実態がよくわからない。例えば、アンディー・ウォーホルは、著名人(マリリン・モンローやケネディ大統領夫人)のポートレート写真の複製をべたべたと30枚も並べた作品を制作している。作曲家には、ルチアーノ・ベリオという引用の大家がいる。どちらの芸術家にしても、どこかで著作権侵害の話があってもおかしくない。しかし、アンディー・ウォーホルが法律に引っかかったという話など、法律データベースのレキシスを探しても出てこない。他のアバンギャルド芸術家の名前も探索してみたが、まったく出てこない。たぶん仲間内でうまくやっているのではないか、というのが私の類推である。そうした事情がもしあるとすれば、それはそれでよい。とすれば、エンドユーザーにも同様にカット&ペーストを認めてもよいだろう。その条件を公知にすべきである。このへんに著作権が許諾権であるという限界がある。
 今の著作権法は、言ってみればオーラを持つ著作物が念頭にあってできているらしい。批評家のウォルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』という著作のなかで、いまここにしかない「オーラ」を発するような複製不可能な唯一品としての著作物があるといっているが、著作権法の想定している著作物はそういう独自性、希少性をもつ作品である。つまり、現在の著作権法は、きらきらと輝くひらめきを持つ天才と読むだけの能力しかない人間との関係の中で、著作物のやりとりがなされているという枠組みをもっている。「著作者天才史観」あるいは「著作者優先モデル」といったらよいか。
 しかし、どうだろう。インターネット空間では、いろいろな著作物が出たり消えたりしている。インターネットがだれにでも使える環境になり、自分史的な著作物が大量に発表されるようになった。お金を取ろうという発想ではなく、「だれだれの日記」といった自費出版的なホームページもある。投げ銭システムといった提案もある。商業的な領域にも、ご存知のリナックス(オープン・ソース・プログラム)が現れている。どれも著作物には違いがないのだが、これらをすべてベンヤミン的な「文芸、学術、芸術に属するもの」という著作権法の定義に入れて考えていいものかどうか。
 とすれば、既存の「著作者優先モデル」の発想では、もう限界があるということになる。アルビン・トフラーが『第三の波』で「プロシューマー」(プロデュサー兼コンシューマー)という概念を示してからすでに20年を経ている。エンドユーザーがプロシューマーと化し、自分で新しいものを作って、自分の作品をインターネットにアップロードするという時代に入っている。つまり、著作者と読者がレシプロカルな関係になった。これまでの一方向的な流れで著作物の流通を捉えることはできない。
 現在の著作権法は、権利者が著作物をコントロールしなくとも、ディストリビューターがそれをコントロールするということと、そのディストリビューターの数が非常に少ないということを前提にして成立してきた。映画を例にとれば、現像所があって、そこで映画のコピーが何本作られたかがカウントできるという前提があった。放送局にしても、チャンネルの数が希少であることを想定してできている。印刷物の場合にしても、出版社も印刷会社もコントロール可能の数である。したがって、勝手にコピーできないように制御できる。くわえて、エンドユーザーのコピーについては、たかが知れているという事実があった。
 しかし、いまやそういった前提は完全に崩れてしまった。「著作者優先モデル」は残っているが、それを成立させてきた秩序は崩壊している。ここに、さらに著作物のデジタル化とその環境のネットワーク化が出現し、著作権制度にさらなるひずみをもたらしている。これが、この10年間の経過である。
   
●精緻にすぎる法律へ、理解しにくい法律へ
 デジタル化をめぐる著作権の議論には二つの立場がある。まず「デジタルであろうとアナログであろうと同じ」という主張がある。もう一つは「デジタルはアナログとまったく違う」という主張である。このどちらの立場をとるかで議論の落ち着く先が違ってくる。前者であれば、法改正は必要ない。解釈を膨らませれば、間にあわすことができる。後者であれば、法改正は不可欠である。
 現在は「違う」という判断である。デジタル化は著作物の種類を殖やす。たとえば、DVDが生れる。これがかりにM種類できたとしよう。また、ネットワーク化は著作物流通の種類を殖やす。たとえば、ナプスターが現れる。これがかりにN種類できたとしよう。もともと著作物には「言語の著作物」からはじまって「プログラムの著作物」まで9種類あり、それぞれに対して別のルールが設けられている。したがって、ルールの数は全体で9×M×N種類になる。このように、ルールがどんどん細分化され、かつ増える傾向がある。世の中が多様化するから仕方がないことではあるが、法律家にいわせればこれは技術者が厳密な定義を求めすぎるせいだと言うし、技術者から見れば法律家が細かいことまで決めたがるせいだということになる。どちらのせいであっても、法律が細かくなり、かつ、もつれることは確実である。
 例えば、著作権法の施行例をみても、32キロヘルツならどう、48キロヘルツならどうのといった非常に細かい事が書いてある。つまり、デジタル録音するときのサンプリング・レートの周波数が、法律の中に埋め込まれている。範囲が拡がったり細分化されるにつれて、こうした細則がどんどん増えているわけだが、イヌのリズムで成長するインターネットの世界では、新しく加えたルールもわずかの間に陳腐化してしまう。
 その結果どうなるのか?著作権法は下手なプログラマーが書いたプログラムのようになる。つまり、絡んだスパゲッティーのようにもつれる。したがって、万人が著作者というインターネット時代になると同時に、法律は万人の理解を絶するように精緻になる。忘れさられているのがエンドユーザーというわけである。このような状況を歓迎するのは、たぶん、著作権ビジネスの関係者、そのなかには法律家も入るが、だけだろう。
 私はコンテンツ業界とハード業界のファシリテーターをしたことがあるが、話を一つ決めるのも大変であった。「コピー機能つきのパソコン」か「パソコン機能つきのコピー装置」かなどという議論がえんえんとつづいた。
 と言っても、デジタルもアナログも「同じ」という扱いでいいとしても問題は解決しないだろう。今の法律は柔軟ではないので、解釈をめぐって利害関係者の睨み合いが続くのみという恐れがある。
 インターネットの世界には、膨大なユーザーがいるわけだが、そのすべての人が著作権法に詳しいわけではない。その大多数は善意の人だろう。だが、かれらはみずから知らないうちに著作権を侵害してしまうということもあるだろう。現在のように、スパゲッティーのように絡んで分かりづらい著作権法では、こういうことは十分にありうる。これをさらにスパゲッティー化しようとしているのが、今の著作権法の動向である。
   
●法律に取って代わる契約
 権利者の側は、法律を変えようという方向で動いており、現実に法律を変えてきている。だが、ビジネスや技術の進みがあまりにも速いので、それを法律はつねに追いかけなければならない。だから、つねに不十分という点が法律にはある。その足りない点を技術や契約で補うという方法が、最近、普及してきた。たとえば、洗練した技術でセキュリティーの高い著作物取引のシステムを作り、その取引を契約で支えるという方法である。
 ただしこの種の仕組みが事業者によって恣意的に導入されるようになると、著作権を二重三重に管理され、ロイヤリティーを二重三重に取られるようになる懸念も生じる。そういう世界が到来することを覚悟しておかなければならない。
 すでにデジタル補償金という仕組みはあるが、法律的には補償金はプライベートユースの対価ということになっている。ところが、さらに、ここにディストリビューターが参入してネットビジネスを展開し、買い手に個別の課金をしていけば、これはロイヤリティーの二重取りになる。つまり法律上おかしいことになってくる。
 別の例を挙げれば、英国では、大英図書館はすでにコピー・サービスに課金をしている。一方、大手の学術出版社はアドニスという学術データベースの課金システムを作っている。大英図書館はアドニスと契約しているため、大英図書館を経由してアドニスにコピーを依頼したエンドユーザーは、二重にロイヤリティーを支払っている。そのようなことが、これからあちこちで起こってくるだろう。
 著作権法は、陳腐化しつつあるのは事実であるが、さればといって、契約で法律をなし崩しにしてしまうことが、よいことなのか、どうか? 法律には、著作権法にも、それなりに過去の人々の経験や知恵が集積されているはずである。それを恣意的な個々の契約でバイパスしてしまってよいのかどうか? こんな議論が法律家のあいだにもある。
   
  ●電子化は商業出版を進める
 著作権管理がもっとも行き届いているのは、学会の出版物である。しかも、電子化が進んだことで、かなりしっかりと管理が行き届くようになっている。たいていの場合、自分の書いた論文の著作権は学会が持っている。学会がその論文を電子化し、電子ジャーナルとして発行し、同時に著作権管理をしている。
 こういう前提があるから、著作権管理もうまく行き、ビジネスの機会を求めて大手出版社もどんどん入ってきて、データベース事業の競争が激しくなっている。その際たるものがエルゼビア社で、アメリカのデータベース企業を吸収し、さらにはクルーワという有名な法律系の出版社とも合併しようとした。だが、独禁法上問題があるということで、欧米の司法当局からストップがかかった。こんな状況である。それだけ学術系出版の電子化が進んでいるわけである。
 電子化が進んだ世界で、何が起こっているのか。図書館の関係者は「シリアル・クライシス」とよくいう。シリアルとは逐次刊行物のことであり、クライシスとは値段がどんどん高くなっているという問題を指している。国会図書館では、海外の科学技術系の雑誌を毎年とっているが、例えば、1990年には単価が34,169円だったものが、1999年には133,882円になっている。90年代初期には12,000タイトルくらい買えたものが、今は4,000タイトルを切っている。国会図書館でもこういった状況である。これは何を意味しているかというと、つまり寡占化が進んでいるということである。市場が電子化して著作物の生産、流通から著作権管理までが一連のシステムに統合されると、他分野でもこのように寡占化が激しくなるかもしれない。ただし、学術論文というのは代替が利かない、汎用性がないということがあり、たまたまユーザーは市場競争のない分野なので、このような状況が起きやすいのかもしれない。
 このような動向に不案内なのが、じつは法律の先生方である。日本の学術著作権協会の資料を見ると、法学系の学会を除いて、人文系を含めて、ほとんどの学会、とくに理工系、医薬系は、投稿論文の著作権を保有している。くりかえせば、法学の諸先生がこのような現代的(つまり集中的、電子的)な著作権管理に冷淡である。なかには理工系の研究者は出版社に収奪されているなどと批判なさるかたもいる。そういう意識の先生方が、じつは著作権法について決定的な発言力をもっているという現実がある。
   
●電子化は自費出版も進める
 ところで、研究者は、論文の著作権よりもその論文に含まれている発見や理論化の先取権を大切と考えている。このために、自分の論文を引用してもらうことで自分の成果を訴えたいと思っている。だから、論文を公共財と考え、相互に引用しあう。その結果、引用される数が多いほど評価されたという慣行がある。他人が自分の論文をコピーすることを歓迎する、という発想になる。
 じつは、学会誌の分野では二極分化が進んでいる。一つはいま話した商業出版社による寡占の世界、もう一つのほうは、自費出版の世界である。研究者は、著作権より先取権を優先するので、自費出版の発想になじみやすい。その例としては、1982年に、アメリカのロス・アラモス研究所のギンスパーグという物理学者が作った「アーカイブ」(最初は「Eプリント・アーカイブ」と呼んだ)という電子ジャーナルがある。1,500ドルのユニックスマシンを買ってきて、これで電子的なプレプリントの交換サービスを始めた。それが次第に評判を呼んで、いまや物理学だけではなく、経済学などほかの分野の論文も真似するようになった。「アーカイブ」は今や物理学の世界では権威ある雑誌になっており、アメリカの物理学会でもこれにリンクを張っている。
 こうした電子ジャーナルは、年間の維持費が1ページ5ドル程度ですむということで、それなら何も大出版社に頼む必要がないということから増えている。この種の電子雑誌を「ウエッウェブ・ベイスト&オーサー・ファウンデッド・ジャーナル」と呼ぶ。
 電子化で困るのは中抜きになる学会と出版社である。学会のは査読に専念することで生き残りを懸けてうる。この査読機能については、とくに医学分野の学会が強い関心を示している。これは論文の信頼性を維持するためである。
 話がわき道に入るが、医学分野では2001年9月に『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』や『ランセット』といったクオリティーの高い13誌が協力して新しい編集方針を打ち出した。これから査読は研究内容だけを対象にするのではなく、「コンフリクト・オブ・インタレスト」、つまり研究者がどこからどれだけお金をもらっているかも評価するというルールを導入した。有名な科学雑誌『ネイチャー』も同調している。
 話が著作権法とは別の世界に入ってしまったが、オーサーシップを考えるときには、こういう要素も入ってくるというのが、学会の新しい考え方である。オーサーシップとは、ただ書いたというだけではなく、著者の倫理性も含むと言い始めたことになる。これを著作権だけの世界に還元して仕切ることはむずかしくなった。「人格権」という概念が新しい意味を持って復権してきたともいえる。一方には技術やビジネスで推し進めていく世界があり、他方にはこうした考え方も出てきている。
   
●コモンズ(共有地)のなかで
 学術出版の外でも自費出版的な動きが活発になってきた。インターネットの時代になって大きく変わった点は、ユーザーの変質と増大とである。前述したように、ユーザーがすなわちオーサーという時代になった。と同時に、ユーザーの数が極端に増えた。
 1984年に、アメリカでソニーのベータマックスに対して訴訟が起きたことがあった。そのときの最高裁の判決の中に「グーテンベルグの時代には万人が読者であったけれども、ゼロックスの時代には万人が出版者になった」という有名な言葉があった。まさにこれがインターネット時代に実現したといっていいだろう。
 99年に、インターネット上にあるだれでも閲覧可能な情報が10億ページを超えたというニュースが伝えられた。その後も毎月数億ページずつ増えているといわれている。著作権は、このすべてを保護することを目指すべきなのだろうか。
 だが、このように、建前私的著作物、実質共有著作物が氾濫してしまうと、営利的な著作物と非営利的な著作物とが混じってしまい、現在の無方式主義でよいのかという課題も生じる。無方式主義とは、著作者はなにもしなくとも、特許権のように出願しなくとも、自動的に著作権を与えられるという制度である。プロの法律屋さんは無方式主義でやってもなんの問題もないと主張なさる。だが、論理的にはそうであっても、これではプロシューマーは困る。プロシューマーにとっては、その著作物がフリーであるかないかをが、一件して分かるようにして欲しい。私は、権利を欲しい人はどこかに登録するとか、何かマークをつけて発行するとか、せめてそのくらいのコストをかけるべきなのではないかと思う。
 インターネット空間は公共財という慣行は広く行き渡っている。インターネットはもともとFTP、電子メール、wwwなど、すべて情報資源を共有するという発想からできたツールの集合体である。ビジネスの方々、権利者の方々は、こんな環境のなかで、新しい秩序を導入しようと四苦八苦していることになる。とすれば、インターネットの上では、公共財という領域と、権利を持ち込む領域とを、きちんと区分けできるような仕組みが必要だ。インターネット空間はコモンズ(共有地)である。したがって、その一部分にだけビジネス用の囲い込みを認める、というほうが素直な発想ではないだろうか。
 法律のデータベースの「レキシス」を「コモンズの悲劇」というキーワードで検索すると、この数年間分でも100編を超える法律論文がでてくる。もともとは「コモンズの悲劇」はハーディンという生物学者が地球を共有地に見立てて書いた環境問題を扱った論文である。それが、インターネットもコモンズだということで、インターネット上の知的所有権を考察するために、このキーワードを使って論争が起きている。「反コモンズ」とか、「もう一つのコモンズ」とか、「コモンズの悲喜劇」とか。残念ながら、日本の研究者はこのような議論を空理空論だと考えているらしい。
   
●著作権デバイド
 普通の人は、例えば自分の読んだ本を人に貸すのは当たり前だと思っているし、家族や友人で回し読みすることも当たり前だと思っている。ところがソフトウェア・プログラムでは、同じことが違法とされている。たぶん、どちらの人も自分の習慣を常識と考えていることだろう。つまり、著作権法は、極端なデジタル・デバイドを作りかねない。しかも、このデジタル・デバイドは国境を越えて存在しているだろう。厄介な時代と環境になった。こういう現実に対応した新しい著作権法を作れるのか、そういう規範を国境を越えて納得されるようなかたちで設けることができるかという問題が最後に残る。
 今、デジタル・デバイドといったが、著作権デバイドといったらよいか。著作権の世界にも、理念の分裂が生じている。第1は、正統派の世界。ここには、著作権学者、古典的な芸術家がいる。第2は、市場派の世界。ここには、著作権ビジネスの参加者がいる。第3は、無党派層の世界。ここには、コンシューマー、自費出版の人、研究者、フリー・ソフトウエア運動への参加者、などが入る。このところ、第1の正統派の声は小さく、第2の、市場派の声がとくに大きい。第3の無党派層は仲間内でぶつぶつ雑談している感じである。
 正統派を支えるのは、法律と国際条約。この金看板があるので、やや時代物ではあるが、面と向かってとやかく言う人はいない。市場派を支えるのは契約。著作権法のどこを見ても、商取引に関する条文はないにもかかわらず、著作権法を業法であると勘違いしている。この層の駆動力は投機という分かりやすい動機である。いっぽう、無党派層を支えるものは互酬の慣行にすぎない。破れやすい仕組みである。ただし、その舞台はインターネットという地球規模の拡がりをもっている。つまり、無党派層の人口は巨大である。
 この互酬という慣行をもつ巨大な集団のなかに、契約や技術というすぐれて人工的な装置をインプリメンテーションできるかどうか?
 ここに市場派の成否がかかっているといえるだろう。
   
参考文献
(1)斉藤博「著作権法」有斐閣(2000)
   正統的な解説書。
(2)小泉直樹「アメリカ著作権法」弘文堂(1996)
   著作権制度の思想的背景を知るためには好著。
(3)名和小太郎「サイバースペースの著作権」中公新書(1996、電子文庫パブリ版2000)
   デジタル環境、インターネット環境における著作権の変貌を米国の判例によって示した。
(4)E.S.レイモンド(山形浩生訳)「伽藍とバザール」光芒社(1999)
   フリー・ソフトウエア運動の一つの到達点。その理論的支援者による総括。
(5)名和小太郎「学術情報と知的所有権」東京大学出版会(2002)    学術情報のオーサーシップについて、その電子化と商用化の実態を
紹介。

   
    名和小太郎   グーグル論(12)                               トップペ−ジへ  グーグル論リストへ