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  「積ん読」の終わり?    

                           『本とコンピュータ』 2期16号 2005年
   

自分のことで恐縮だが、わが家の書庫にある本をみると、読み通したものはごく僅か、拾い読みのものが多少、読まずに積んだままのものが大部分、である。
 本を読むのが嫌いではないのだが(その証拠に書評集を2冊作った)、そして、まあ速読のほうであるとは思うのだが、この始末である。私にとっての本は、なべて言えば本は死蔵のために購入したようなものである。
 よく大学図書館に厄介になる。ここでも私が最初の借り手だったり、あるいは数十年ぶりの借り手だったりすることが多い。つまり図書館の本も読まれる機会はほとんどないらしい。積んであるだけ、といってよい。
    
 電子化であるが、このときに「積ん読」はどうなるのか。もう手元に冊子体はない。読者はデータベースにアクセスして電子本のサービスを受けることになる。もし契約を止めれば、契約中にアクセスできた電子本に対しても、アクセスはできなくなる。ここで「積ん読」という行為は止めを刺されてしまう。
 冊子体には絶版ということがひんぱんに起こった。だから「積ん読」をした。だが電子本についてはその心配は無用である。いったんインターネット上にだれかがコピーしてしまえば、その電子本は探すのはたいへんかもしれないが、間違いなくだれかのシステムのなかで半永久的に残っている。これが現在の経験的な事実である。とすれば、なんで「積ん読」をしておく必要があるのか。
 じつは、上記の話はすでに学術雑誌の分野では実現つつあることである。サービスの電子化は多様な形で試行錯誤がなされている。絶版対策については、大手の出版社がその国の国立図書館にバックアップ用のデータベースを預けたような例もある。
    
 かつてパピルスの巻子本が紙の冊子体になったときに初めてページが振られ、したがって引用という冊子体の使い方ができた。同様に、冊子体が電子本に替われば、私たちはハイパーテキストのありがた味を満喫できるはずだ。そのハイパーテキストの処理が自由にできれば、私たちは、もう「積ん読」のための冊子体の山を作らないですむことになる。
    
 とはいいながらも、私は冊子体の山に囲まれていたい。理由を問われると窮するが。

   
    名和小太郎   読書論・出版論(1)                      トップペ−ジへ   読書論・出版論リストへ  次へ