op3     

   
  書評 vs 音楽批評    

                           『オン・ザ・ライン』 4巻2号 1991年
   

縁あって書評という仕事をオフビジネスでさせてもらっている。週刊誌と月刊誌で一つづつ、季刊誌が二つ、常連の寄稿家という恰好である。ほかにも、アドホックに頼まれたり頼みこんだり。
 本好きにとっては、冥利につきる仕事、書籍代を原稿料で充当もできるし、と胸算用してとびついた。だが、いざ仕事をはじめると、期待はたちまちにして雲散霧消した。
 とにかく生産性が悪い。原稿を書くまえに、まず読まなければならない。この時間がけっこうかかる。それも1回で良書に当たれば幸運というもの。たいていは、数冊読んだなかから1冊選ぶ。
 定期刊行物の原稿だから、締切の厳守というルールを強制される。そこで相手にする本は、厚さの薄いものになりがち。上中下あわせて1000ページをこえるようなものは敬遠する。強制のもとに頽廃がおこる、という原則に例外なし、か。
 それに書評原稿では、13字×82行±0行などと、長さをきちんと指定される。だから浩瀚な大全集でも一つ星の文庫本でも原稿料はおなじ。これも生産性にからむ頽廃の原因。
 悲劇は編集者から自分の専門領域の本の批評を依頼されるとき。この場合、自分の知りつくしていることを無理強いに読まされることになる。限界効用は低く生産性は落ちる。
 褒めようのない本を相手にするときも苦役。生産性は激減する。この手の本は、原則敬して遠ざける。それでも編集者から、ぜひに、と頼まれることがある。こんな場合、再読し三読し、どこかよいところはないか、と捜しまわる。
 書評欄は公共的なフォーラムである。そこに執筆する以上、読者に偽りの情報をしめすことは避けなければならない。だが温厚を標榜している私には、品のない悪口は書けない。とすれば、曲筆舞文に徹するほかに手はない。論理のおもむくところ、こうなる。
 いつぞやは、序文のみを紹介し、その敷衍に徹したことがある。また、当の本には触れずに、つぎの著書に対する期待を列挙しつづけたこともある。こんなとき、読者よ、ねがわくば評者の意のあるところを察せよ、という思いで一杯。
 ところで書評の役割はなんだろう。汗牛充棟のなかから面白い本を探して読者に紹介することだ。もちろん読者と書評家のあいだで選択ルールの食い違うこともあるだろう。だが、ともかくも読者は書評を手引きとして、当の本にアクセスできる。
 この点、読むことができるが、それでお終い、という批評がある。批評の対象に読者がアクセスできない。それは、演奏会の批評である。
   
 だれの演奏は秀れていた、という文章を後日新聞紙上で読んでも、6日のアヤメ、10日のキク。肝心の演奏にアクセスする手立ては読者に残されていない。
 それというのも、音楽作品にアクセスするには、その時、その場所にいなければならない、という条件があるためだ。
 考えてみると、同時性、局所性が条件というものはほかにもある。たとえば野球や相撲。だがこちらは、あとで新聞に出る批評記事を、読者はけっこう楽しんでいる。それは翌朝の電車のなかで確認できる。
 なぜか。こちらには勝ち負けがあるから、かな。とすれば、音楽会でも勝負を争うようにしたらよい。たしか中世のトルバドゥールやミンネゼンガーには歌合戦といった趣向もあったはず。この際、伝統回帰と洒落てみたらいかがか。
 演奏家A氏は試合数X、勝ち点Yなどとカウントする。この数字をデータベース化して国際通信ネットワークでサービスする。ニューヨークの音楽市場と東京の音楽市場とで、同一演奏家の相場が違ったりして。先物指数も間違いなく出現するはず。
 こうなったら音楽批評は強い。書評には言語の壁があったが、こちらは国際性を存分に発揮できる。批評家に張り合いもでてくるだろう。

   
    名和小太郎   読書論・出版論(3)                    トップペ−ジへ   読書論・出版論リストへ  次へ  前へ