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  添削論 俳句と著作権(2)    

                           『梛』 13巻2号 2008年
   

素人による俳句の著作権談義、その2回目。前回、俳句に関する著作権訴訟はごく稀である、といった。今回は、そのごく稀な例を紹介しよう。
 事件はある俳句誌をめぐって生じた。訴えたのは俳句の投稿者Aさん、訴えられたのは選者のBさんと編集者のCさんだった。
 まず投稿句であるが、つぎのようなものであった。
   
  波の爪砂をつまんで桜貝
  井戸水からメロンの網目がたぐらるる
  みのうえに蓑虫銀糸の雨も編め
   
 これを選者のBさんはつぎのように添削し、Aさんの名前をつけて入選作とした。
   
  砂浜に波が爪たて桜貝
  井戸水からメロンの綱がたぐらるる
  蓑虫の蓑は銀糸の雨も編む
   
 Aさんは、この添削に対して、「著作者人格権」を侵害された、ついては損害賠償をせよ、また名誉の回復措置もとれ、と異議を申し立てたのであった。
 著作者人格権とはどんな権利なのか。そのなかの一つに「同一性保持権」というものがある。この権利があるために、どんな作品に対しても、作者以外の人は、当の作品に「作者の意に反する変更、切除、その他の改変」を加えることを禁じられているただし、条件があって、「やむを得ないと認められる適法な改変」はよし、と定められている。
 訴訟にもどれば、Aさんは、前記の添削は「自分の意にそわない変更」だ、と主張したことになる。
 BさんとCさんは反論した。俳句の共同体のなかでは、添削という学習法が慣行として成立している、したがって添削は「適法な改変」にあたる、と。
 法廷はBさんとCさんの言い分を了とした(東京地裁、平成9年)。法的な議論は省くが、裁判官は芸術の世界にみずからの論理を押し通すことを遠慮したことになる。ここまでが事実。
   
 以下が私の感想。現行の著作権制度は19世紀末に完成したものである。その下地になっている理念はロマン派のそれ、つまり芸術作品は孤高の天才によって作られ、読者はそれをただ享受するのみ、という枠組みによって支えられている。
 この枠組みのなかに俳句を置いてみるとどうなるのだろう。句会というものがある。話に聞いたりテレビで見たりするだけだが、その句会はコミュニケーションの場でもあるようだ。とすれば、添削もそのコミュニケーションの一部、ということになるはず。
 つまり、俳句は集団制作の芸術である、とみることもできる。その分、天才から読者へ、という伝統的な枠組みから外れる。現行の著作権制度からもはみだすことになる。じつはコンピュータ・ソフトウェアの世界でも集団制作の運動が出現している。この眼でみると、俳句は、案外、集団制作法の先端的モデルになるかもしれない。
 (注、判例に掲載された作品は自由に引用できる。)
   

   
    名和小太郎   読書論・出版論(5)                    トップペ−ジへ   読書論・出版論リストへ  次へ  前へ