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  歳時記編集論 俳句と著作権(3)    

                                『梛』 13巻3号 2008年
   

俳句の素人による俳句の著作権談義。今回はその3回目。
 歳時記というものがある。手元にあるものは袖珍本だが、それでも1000ページ。ページあたり10句以上はあるので、全部で軽く1万句は超える。
 余計なお節介といわれるかもしれないが編集作業はたいへんだろうな、と思う。というのは、著作権法の建前からいけば、作品の掲載については、事前に作者から承諾をえておくことが条件になるのだから。1万句についてその作者を探し、その許諾をとらなければならない。
 その著作権だが、これは作者の死後50年間は存続する。たとえば虚子の著作権は来年(2009年)まで存続する。
 ところで、すべての俳人が大家である、というわけではない。俳句の世界は、たぶん、一方の端に業として俳句を制作している一握りの大家がおり、他方の端には余暇に俳句を制作している大勢の趣味人がいる、ということだろう。
 無礼を顧みずいえば、大家であっても駄句はあり、駆け出しの趣味人であっても佳句はあるだろう。つまり、大家、駆け出しを問わずに、歳時記の例句として参照したい、という作品はあるはずだ。
 ここで問題が生じる。たとえばの話だが,10年前に駆け出しの趣味人であった人の佳句を掲載したい、と編集者が考えたとしよう。作品は編集者の記憶に焼きついている。このときに、編集者は当の作者にアクセスできるだろうか。
 10年前に駆け出しの趣味人であっても、その人が現在でもどこかの結社に入っていて活動をつづけていればアクセスは簡単、問題はない。だが、当人が俳句の世界から立ち去ってしまって行方知れず、ということもありうる。かりに鬼籍に入られたことが分かったとしても権利は生きている。ただし相続者が不明、ということはあるはず。
 ここで著作権法の原則を思いだしてほしい。作品の出版にあたっては事前に本人にアクセスし、その許可を求めなければならない。この原則があるので、行方知れずの人の佳句を出版することは現実には難しい。
 このように作者にアクセスできない作品を、著作権の関係者は「孤児の著作物」と呼んでいる。いったん、孤児の著作物になってしまうと、それがどんなによい作品であっても、その出版は絶望的に不可能となる。
 いや、私は著作権など主張しない、私の作品を使っていただけるのであれば、それは名誉なこと、どうぞ無断で、ご自由に。こう、言う人もいるだろう。だがこれは法の精神に反する。著作権は、だれに対しても、どんな作品に対しても、その作品が生れた時点で、その作品に対して自動的に、かつ無差別に付与される権利なのだから。
 ということで、著作権というもの、大家に対しては役に立つが、無名人にとってはうっとうしい。こういうことになる。

   
    名和小太郎   読書論・出版論(6)                    トップペ−ジへ   読書論・出版論リストへ  次へ  前へ