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  『サイバースペースの著作権』(中公新書 1996年) より   
   

はじめに
 「グーテンベルク(印刷術)の時代に万人が読者であった。ゼロックス(フォトコピー)の時代には万人が出版者になった」。たしかマクルーハンの言葉であったかと思う。現行の著作権法は万人が読者であった時代にできた。それが万人が出版社になった時代をも取り仕切っている。そこで実状に合わない点があれこれと目につくようになった。それは、つぎのような場面を見れば理解できるだろう。
 第1に、コピー技術がますます発達し、かつ普及した。フォトコピーは序の口で、ヴィデオ・カセット・レコーダー、パーソナル・コンピュータ(ここにはプログラムやデータベースが入る)、コンパクト・ディスク、衛星放送、さらにはディジタル・サンプリング、インターネット上のワールド・ワイド・ウェブなどが出現した。これらのディジタル技術は、その高性能化によってオリジナルとコピーの区別を無意味にしてしまい、その普及によってユーザーがコピーをする機会を増大させてしまった。
 第2に、コピー技術の多様化のために、関係者の利害が錯綜してきた。古典的な著作者は制作技術に頼ることがほとんどなかった(弘法は筆を選ばず)。かれは自分の制作物に自信をもって署名することができた。だが、電子的な製作品に対しては、素材を制作する者、その素材を加工する者、その加工技術を開発する者、その製作品を流通チャネルに流す者など、多数の個人、法人が参加するようになった。これによって、それぞれの利害の調整が厄介になった。
 第3に、コピー技術がインタラクティヴ性をもつようになった。このために、著作物が少数のエリートによってのみ生産され、大衆はそれを消費するだけという現行著作権法の前提は崩されてしまった。このインタラクティヴ性によって、万人は出版者であるにとどまらず、著作者にもなってしまった。情報の世界にもトフラーのいう「プロシューマー」(「プロデューサー」+「コンシューマー」)が現われたことになる。さらにインターネットの普及はこの状況を地球規模に拡大してしまった。このような結果、一般人がもつコピー能力の量と質とを伝統的な著作者は無視できなくなった。また、一般人のコピーに対する倫理感や通念を無視することもできなくなった。
 第4に、著作物に対する社会の価値観が大きく変化した。引用だらけの建築物がポスト・モダンとして囃されたり、既存のメロディを下敷きにしたラップ・ミュージックが人気を博したり、パスティシュと呼ばれるパロディ的な小説が売れたりするようになった。「歴史も文化もつまるところ<引用>の総体から成り立っている」(山口昌男)というような意見が当たり前として通るようになった。(ここにいう「引用」は著作権法の定義する「二次的著作」に相当する。)
 第5に、じつは、このような変化をすでに見抜いている人びとがいる。それは著作権ビジネスの関係者である。かれらは現行の著作権制度を補強しようとして、一般人の行動に強い関心を持ち、その線で制度改正に向かって活動をはじめた。たとえばコピー防止装置に対して、技術的、法律的な措置を取ろうと試みている。やがて、一般人でもうっかりすると、侵害者として指弾されかねない状況になるだろう。(現行制度には、不十分ながらも「公正使用」あるいは「私的使用」という聖域があるが。)
 第6に、G7諸国の政府がこうした著作権ビジネスの活動を支援するようになった。次世代情報基盤の構築にからめ、情報産業の国際競争力を高めようという、産業政策的な思惑があるためである。
 ここで、この本の意図を述べたい。上のような環境のなかで、著作権の関係者でありながら現在の著作権論議から放り出されている人びとがいる。それはプロシューマーになった一般人である。著者はそのような人びとから、よく相談を受ける。たとえば読書人の利害を代表するライブラリアン、あるいはインターネットを利用して情報の共同利用を進める研究者から。そうした人びとは、知的所有権財産を尊重することにおいては疑義をもっていないが、現行の著作権制度には強い違和感をもっている。
 もともと法律は専門家の扱うものであり、一般人から見るとブラックボックスに入っている。著作権法もそうである。その条文はもつれており一般人の理解をこえる論理構造を持っている。だが、その法律が一般人の行動と密接に絡みあうようになった現在、それを一般人の視点で点検し整理してみる必要はあるだろう。著者の問題意識はここにある。
 したがって、この本は著作権法の逐条解説でもなければマニュアルでもない。現行著作権法を、一般人の視点で再定義し、その問題点を列挙したものである。その問題点となるものは、現在および近未来においては、マルティメディア著作物(ディジタル信号になった著作物)に集中するだろう。そこで、ここに焦点を置いた。
 つぎに、この本の方法を示しておこう。第1に、結論がこうだと決まったテーマは避け、結論が揺れているテーマを選択した。これによって現行制度がよってたつ根拠の曖昧さを明らかにしようとした。
 第2に、技術の論理で法律の論理を料理した。技術の論理を解体して法律の論理に再構 成する法律家の方法――プロクルステスの寝台方式――はとらなかった。一般人はマルティメディア製品という技術成果を一体として扱うのであって、著作権法の無矛盾性を配慮してマルティメディア製品と付き合うのではないからである。
 第3に、技術者のいう「第一近似」の表現で記述を通した。したがって、法的な厳密性は配慮してない。煩雑な定義や例外規定はいっさい省いてある。これは「樹を見て森を見ない」ことがないようにするためである。用語についても一般人の言葉を用いた。外国の法律や国際条約の条文も、この流儀で翻訳しなおした。
 第4に、議論や判例についても、一般人にとって興味のあるものを選択した。この点、法律家の価値観にはかならずしも倣っていない。つまり一般人の常識を専門家の規律感覚や職業意識より重視した。
 第5に、米国の具体的な事例や議論を主として紹介した。米国に先進的な事例があり、また米国には訴訟で問題解決を図ろうという社会的慣行があるためである。(米国法は日本法と違うが、情報サービスが越境しつつある今日、また米国の情報サービスが圧倒的に強者である現在、この相違はやがて消えるだろう。)付言すれば、技術には国境はないが法律には国境があり、そのぶん技術のほうが普遍性が高い。
 最後に、この本の構造を紹介しておく。
 1章では、著作権の基本的な概念について歴史をたどりつつ要約した。ここでは、現行著作権制度の国際的枠組みであるベルヌ条約を参照枠とした。
 2〜6章では、現代社会と著作権制度とのあいだに存在するきわどい緊張関係を、技術成果、芸術理念、情報ビジネス、国際動向との関連のなかで考察した。ここでは、さまざまな問題に対して、肯定論と否定論とを比較した。
 7章では、次世代の著作権制度を予見させる提案や実験を紹介した。とくに法律家の視野から外れているものを重点的に示した。
 第8章では、全体を総括しつつ、著者の見通しと意見とを述べた。著者は、既存の規範にとらわれない技術者の発想に好意的であり、法的安定性をよしとする法律家から見ると偏向しているといわれるかもしれない。
 以上がこの本の目指したことである。

   
    名和小太郎                                      さらに   プロフィール へ           トップペ−ジへ