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  自著自注   
   「社会の中の知的財産権制度」 『NIRA政策研究』 18巻1号 2005年  
   

21世紀に入り、先進諸国では知的財産権を強化する動きが活発になっている。多くの論者はこの傾向をよしとしているが、これを社会のなかに置いてみると、そのすべてを手放しで是認できるというものでもない。以下はこの視点で書いた自著自注。
   
1 『デジタル著作権』 (みすず書房 2004年)
 近年、著作権の強化が積極的に進められている。米国では発行後1世紀を超える保護期間まで実現している。しかし、すべての著作物が長寿命、高需要であるわけではない。そのような作品は一握りにすぎない。短寿命、低寿命の作品のほうが圧倒的に多いが、そういうものはあっという間に忘れられてしまう。
 だが短寿命、低需要の著作物であっても人類にとって貴重な財産であるかもしれない。かりに10年後にそれに気づいた人がその作品を刊行したいと思っても、もう著作者の生死や著作権の相続者を発見することは困難だろう。とすれば再発見者は権利侵害のリスクをおそれて刊行をあきらめるかもしれない。保護期間が長いほど、このリスクは高まる。
 もう一点、著作権はパロディを人 格権を侵すという名目で抑えている。 これは「表現の自由」と衝突する。また政府情報の無償公開を妨げている。これは「知る権利」と対立する。あるいは保護を名目としてプロバイダーから侵害者名を聞き出すことができる。だがその判断を誤った場合には「通信の秘密」を侵すことになる。このようにして著作権制度は憲法問題と重なるようになった。だが現在の著作権の改訂議論には憲法学者は参加を求められていない。
 2つの問題点を示したが、それはこれまでの制度が供給サイド、つまり著作権ビジネス業界の秩序になっているためである。どの業界も自分のことだけを考えて、その場しのぎに問題解決をしてきた。つまり、部分最適化(つまり蛸壺主義)の発想で制度づくりをしてきた。それが重なって法律がユーザー不在となり、その分、難解になっている。
   
2 『ゲノム情報はだれのものか』 (岩波書店 2002年)
 特許権はそもそも「物」に関する発明を保護するために設けられた制度である。だが20世紀になると、その「物」に生物を含めるべしという要望がでてきた。それは最初は特許とは別に育種家の権利として認められた。
 70年代以降になると遺伝子操作技術が現れ、その成果について特許の付与が求められるようになった。その特許はまず微生物に認められ、つ いには実験動物のネズミに及んだ。
 この動物特許をめぐり、それが社会の公序良俗に反しないのかという批判が出された。論点は、宗教、環境保護、動物愛護、農業など、多くの分野にわたった。これは80年代に米国に始まり、90年代にヨーロッパに移った。
 並行してこの時期にヒト・ゲノム計画が始まる。この計画をめぐってゲノム情報を公有にすべきなのか、特許によって私企業のなかに封じ込むのか、研究者のなかにも大きい対立が生じた。これらの論議はその戦略的な価値から国際政治のなかで翻弄された。
   
3 『学術情報と知的所有権』 (東京大学出版会 2002年)
 研究者は「読者すなわち読者」という共同体のなかで行動している。その著作は共有が原則である。(フリー・ソフトウェア運動はもとはといえば、学会のこの慣行から導かれたものであった。)
 ここに商業出版社が参入し、あわせてメディアの電子ジャーナル化が実現してしまった。このために研究者の共同体には、著作の公有と権利化とをめぐって、多様な試行錯誤が繰り返されている。
 だがこれは、新しい秩序を作るための胎動なのかもしれない。
   
(注)ほかに、『図書館と著作権』(日本図書館協会 2005年)、『情報の私有・共有・公有』(NTT出版 2006年)がある。

   
    名和小太郎                                      前へ  プロフィール へ           トップペ−ジへ