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   ピア・レビュー 対 アラート      
   

   
                                                         『科学朝日』 53巻8号 1993年 
   

「NEJM(ニューイングランド医学雑誌)」の編集長だったレルマンは、1991年、退任にあたり惜別の辞を同誌に寄せた。このなかで彼はとくに「インゲルフィンガーの原則」を引用し「信頼性こそ速度にまさる」とその信念を繰り返した。
 インゲルフィンガーはレルマンの2代前の編集長であった。彼は「医学の社会にはレッセフェールはない」と説き、「専門誌に掲載される論文は、発行前に、その本質的な部分が、専門誌、一般誌のいずれにも発表されてはならない」という編集方針を一貫した。これが彼の名を冠した原則である。
 レルマンがインゲルフィンガーの原則を強調したのは、かれ任期の最後の数年間、この原則がジャーナリズムでしばしば話題になったからである。
 ことは1988年5月に、国立ガン研究所(NCI)が「クリニカル・アラート」を1万3000人のガン専門家に送付したことに始まった。それは乳ガン患者に対して、新しい化学療法を提案するものだった。
 この療法は乳房切除または乳腺腫瘤摘出の手術を受けた患者のガン再発を抑制するものであり、3年間にわたる3つの臨床実験にもとづいていた。
 「アラート」の内容はただちにマスコミが取りあげた。その直後から、有名病院の電話交換機は異常トラヒックで麻痺した。不安をもった女性患者からの問い合わせが殺到したのだ。なぜならば、この治療法が閉経や不妊のリスクをもっていたからだ。
 問題は「アラート」が正規の学術雑誌をバイパスして発行されたことにあった。そのために「アラート」には詳細な記述がなかった。医師は患者の質問に答えることができなかった。また、マスコミの対応が迅速だったために、医師と患者はほぼ同時に新しい情報を接したことになる。この二つに医師は当惑した。批判は、インゲルフィンガーの原則を守らないNCIに集中した。
 NCIは反論した。米国には13万人の乳ガン患者がおり、年間4万2000人が死亡している。しかも、腋の淋巴腺をチェックする現在の検査法は不充分であり、検査結果が白でも再発する人が1/3はいる。
 だから患者は一刻も早くこの治療を受けることが望ましい。学会誌での発表を待っていたら治るはずの人も助からない。この措置によって、NCIは年間5000人を救うことができるだろう。
 じつは、NCIは当の研究者に「NCI雑誌」へ寄稿を頼んだのだが、断わられていた。彼は格式ある「NEJM」への投稿のほうが自分のキャリアに有利になると確信していた。
 さらに、NCIは切り返した。専門誌では発表が遅れる。「NEJM」に乳ガンの論文が発表されたのは「アラート」の九ヵ月もあとだ。問題は論文を停滞させるピア・レビュー制度にある。
 レルマンは西部医師会年会でピア・レビューの実情を紹介した。「NEJM」には年間2500の論文が届く。これをレフェリーに回す。論文は著者と編集部の間を1〜3回は往復し、書き直される。この間、6〜10人のレフェリーと編集者によってチェックが繰り返され、全体の10%が残る。ここまで3〜4ヵ月かかる。この7週間後に論文は発行される。
 レルマンは続けた。ピア・レビューの費用は直接費だけで年間10万ドルに達する。このほかにボランティアとしてのレフェリーのコストは年間150〜200万ドルに達するだろう。このようにして「NEJM」は信頼性を維持しているのだ。
 つぎは直腸ガンの治療薬が問題になった。今度、NCIは迂回作戦をとった。八九年夏、NCIは食品薬品管理局にこの薬品を研究に利用できるように求めた。このアクションをマスコミはニュースにした。10月、学会誌に速報が発表された。
 NCIはただちに「クリニカル・アップデイト」と名称変更したレターを3万5000人に送付した。正式論文が「NEJM」に掲載されたのはさらに4ヵ月後であった。議論は再燃した。
 関係者のあいだで調整が試みられた。医学に一刻を争うようなブレークスルーがありうるのかという議論が、まず出た。抗生物質のようなブレークスルーはきわめて稀だ。大部分の進歩は既存の医療法をわずかに改善するだけだ。
 とりあえず、「NCIはピア・レビューの済んだものを発行し、雑誌側はピア・レビューの期間を短縮する」という紳士協定が作られた。
 1990年、国立ガン諮問委員会(NCAB)は44人の関係者を招いてこの問題に関する検討会を開催した。
 NCI所長は「患者、公衆、研究者、病院、医者、科学者、NCIは利益を共有する集団である」と述べた。スタンフォード大学の薬学部長は「政府資金に対して、大学は研究者の権利を守らなければならない」と主張した。「内科紀要」の編集長は「電子雑誌にすれば、時間遅れはなくなるだろう」と提案した。
 このあと、思い思いの意見が続いた。「NCIの契約は研究者に研究成果への権利を与え、NCIにそれへのアクセスを許すものだ」という意見。「今日の定説は明日には間違いになる」という指摘。「年間160億ドルのガン研究のための連邦予算を有効に使うべきだ」という主張。「問題は医学ではなくて哲学の領分にある」というコメントなど。
 この事件を引き起こした乳ガンの研究者は、「NEJM」にこだわったくせに、ピア・レビューに懐疑的な発言をした。「ピア・レビューの基準は雑誌ごとにバラバラだ。A誌に断られても、B誌に回せば受理してくれる。」
 会議のまとめ役は「「アラート」の発行について、NCABが審査をしたらよい」という提案をした。だが、「その審査会のニュースが「ワシントン・ポスト」のトップ記事になるだろう」という反対意見で拒まれた。結局、NCABはなんらの合意を得ることはできなかった。
 肝心の医師はどうか。NCIの調査によれば、76%は「アラート」を是とし、22%はピア・レビューをヨシとしている。さらに、75%は新しい治療法を採用したと答えている。
 だが医師は心配している。「アラート」は政府刊行物であり、患者はその治療法を標準医療だと思うだろう。もし、その治療法を採用しなければ、または、それに失敗すれば、医師は医療過誤の訴訟に引き出されるかもしれない。
 ところで、乳ガンの新治療法だが、喧伝されたほどには効果はないようだ。
 ここに、インフォームド・コンセントの新しいテーマが現れた、ともいえる。

   
    名和小太郎   テキスト論(16 )                               トップペ−ジへ   テキスト論リストへ